04. 仄かな想い
野山を彩っていた紅葉もすっかりと色を変え、吹きつける風が冷たさを増して冬の到来を覗かせていた。街のほうも迫るクリスマスに向けて、大通りを光源で装飾したり、ケーキの予約販売を知らせる広告があちらこちらで見受けられたりと、季節の変化をわかりやすく伝えてくれる。 そんな景色をいつものコーヒーショップの窓から眺めながら、桜坂隆広はハチミツカフェオレを一口飲んだ。 あれから野木の新アルバム制作が始まり、収録は順調に進んでいる。時にはドラムの編曲に苦吟したり、イメージどおりに叩けなかったりしたが、野木のアドバイスや周りの演奏を聴くことによって完成に繋げることができた。 収録するのも残り数曲となり、今度は野木のほうが曲作りに苦吟しているようだったが、特に期限があるわけでもないので気長にできるのを待っている。
「――ごめん、待たせた?」
噂をすればなんとやら、である。ぼうっと外の景色を眺めていた隆広に声をかけてきたのは野木翼だった。
「いや、俺が早く来すぎただけだから気にするな」
そう言うと、野木は一つ微笑んで隆広の隣に着席する。 スタジオ以外で野木と会うのは結構少ない。偶然ここで出くわすようなことは何度かあったが、こうして約束して会うのは実は初めてのことだった。
「今日も寒いね。圭介さん大丈夫かな?」 「大丈夫だろ。あいつ暑苦しいし」
バンドのメンバーの一人、矢田圭介の遊び人風な容姿を思い浮かべて毒づいた。 こうして野木と待ち合わせたのは、市内のオーケストラのコンサートを鑑賞するためだ。というのも、今回のコンサートには矢田がエキストラとして出演することになっており、野木がどうしてもそれを聴きたいと懇願してきたからである。 隆広自身も矢田の演奏には興味があった。彼のヴァイオリンは単に美しいと言うには言葉が足りないくらい良い音を奏でる。野木のバラードをより鮮明に、より情熱的に仕上げるには彼が不可欠で、あたかも歌に込められた感情が音となって伝わってくるかのような演奏に毎度感心させられていた。 そんな彼がオーケストラの中ではいったいどんな演奏をするのだろうか?
(それより、あの格好は相当目立つだろうな)
明るい金髪に耳にはピアス。そんな出で立ちでいれば遠くからでも彼のことを簡単に発見できてしまうだろう。何度見てもヴァイオリンを弾く姿に違和感を覚えてしまうが、その辺りを演奏技術でカヴァーしてしまうのが実に憎たらしい。
野木がコーヒーを一杯飲み終えるのを待ってから、隆広たちは電車でコンサート会場へと移動する。 小さくも大きくもない市民会館には、思っていたよりも多くの人が詰めかけていた。中には大学で見かける顔もちらほらとあり、ただの市民オーケストラが結構幅広く知られていることに意表を突かれる。 二人は前のほうの席に腰かけた。仄かな明かりに照らされたステージには、演奏者の座る椅子やコントラバスなどの大型楽器が準備されている。椅子の数からすると人数はそれなりにそろっているらしい。
「オケのコンサートって来たりすんの?」
バッグの中から今日のセットリストを引っ張り出し、野木に訊く。
「うん、たまにね。圭介さんが出るときはほとんど来てるかな」 「まあ、あいつ上手いしな」
違う楽器同士で比べるのも何だが、野木バンドの中で最も演奏技術が優れているのはおそらく矢田だろう。野木はもちろん、ギターの南とベースの崇も引けは取らないが、表現の繊細さで矢田が一歩リードしていた。
「圭介さんは、栄一さんが引っ張ってきたんだよ。今日みたいなオケのコンサートで見つけて、その後控え室から出てくるのを待ってたらしい」 「甲斐さんって結構行動力あるんだな。俺にはとても真似できん」 「俺もこのとおりだからさ。いろいろと助けてもらったよ」
口うるさいところもあったけど、と野木は苦笑する。
「恥ずかしながら箸の持ち方が悪くてさ、栄一さんに更正させられたんだ。おかげでいまはどこに出ても恥ずかしくないけど」
そこまで世話をしてもらっていたら、好意を持つのも自然なことだろう。初めて出会った日に見せた、甲斐を失ったことに対する悲しみは、野木の持っていたそれの大きさを表していた。
(まあ、俺の場合は逆にお節介と思ってしまうんだろうけど……)
野木は隆広に比べてずいぶんと素直な人間だ。きっとお節介も快く受け入れてしまうのだろう。
「そういえば、甲斐さんとはどうやって知り合ったんだ?」
いままで一度もそれを訊いたことがなかったな、とふと思い出し、訊ねる。
「隆広さんと同じだよ。ライブハウスで演奏しているのを聴いて、惚れ込んだ。何度も追いかけているうちにあっちが声をかけてくれてさ、そんで意気投合したというわけ」 「へえ」
行動力があるらしい甲斐のことだから、それくらいはやってのけても不思議ではない。
「ちなみに最初の頃は俺と崇の二人だけだったんだよ。そこに栄一さんが入ってきて、栄一さんが圭介さんを連れてきて、圭介さんがあっちゃんを連れてきた」 「そうだったんか」
矢田と南が繋がっていたというのは意外だが、あの何でも引っ張ってきそうな遊び人が、まともなギターリストを選出してきたというのがもっと意外だった。
「ドラマーだけ繋がりがないな」 「うん、そうだね。でも自分の目で見て気に入った人だから、やっぱり他の人より特別に思うよ」
大きな黒目がじっと隆広のほうを見上げてきて、柔らかく細められる。
(やっぱ可愛いな)
微笑みを浮かべた顔にはやはりあどけなさが残る。少し厚めの唇はこの乾燥した空気の中でも潤いを保っていて、品のよさに思わず自分の唇を重ねたくなるものだ。
(なんて考えてる俺は変態だな)
野木は怪しい色気を放っていた。女が持つような、思わずくらっとしてしまうようなそれではなく、もっとこう、心の中に眠っている野生の本能を呼び覚ますような感じだ。特に笑顔は花丸付きのお色気マシンで、いったい何度それに理性を奪われかけたことだろうか きっと矢田なら隆広のこのどうしようもない気持ちを理解してくれるだろうが、彼と気持ちが通じ合ったところで何も嬉しいことはない。 そんなことを心中で毒づいていると、何の前触れもなく場内が暗転する。そしてステージ上は眩くライトアップされ、いよいよコンサートの始まりが訪れるのであった。 わらわらと姿を現す演奏者たちの中に、矢田の姿を捜す。
「あ、いたいた!」
声を上げたのは野木だった。隆広にもわかるように指を差すが、あの目立つ金髪はどこにも見当たらない。
「ほら、コンマスの隣の隣」
指揮者台に程近い席には、白髪混じりの頭をした中年の男が座っている。その左の左、短い黒髪に整った顔立ちをした青年が、ゆっくりと落ち着いた手つきでヴァイオリンを構えているところだった。 最初はてっきり野木の見間違いなのかと思った。しかし目を凝らしてみると、照明に照らされた青年の顔は隆広のよく知るもので、それが矢田圭介なのだと理解できる。 まるで詐欺だな、と隆広は思った。あの遊び人丸出しの男が、髪の色を変えただけで好青年に見えてしまう。厳粛な空気に包まれたオーケストラの中に違和感なく上手く溶け込んでいる。 演奏者の入場が落ち着いたところで指揮者の男が登場し、一曲目が演奏される。ヴァイオリンの静かな音色で始まったその曲は隆広の知らないものだった。森の奥の湖を思わせる静かなメロディーがしばらく続き、一瞬無音になったかと思えば、嵐が襲ってきたかのように激しくなる。 一般市民で組んだオーケストラと聞いていたから、実力もそれなりのものだと勝手に思い描いていた。しかし、目の前で奏でられる音色は、本当に一般人が弾いているのかと疑いたくなるくらい美しく、そしてまとまりがあった。 特に、とすっかり好青年に変身してしまった矢田の顔をちらりと見る。結構な数の演奏者の中でも、彼のヴァイオリンは聴き分けることができた。それはもちろん普段矢田の演奏を聴き慣れているからでもあるだろうが、オーケストラの中でも彼の奏でる音色は他と一線を引いて秀でている。 あれでなぜ無名なのだろうか? いままでにも何度か抱いたことのある疑問が、更に深まっていく。 それから何曲か演奏された後、盛大な拍手を持ってコンサートは終演となった。
「控え室で圭介さんが待ってる」
そう言った野木に連れられ、隆広は演奏を終えたばかりの矢田と対面することになった。
★続く★
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