04. 仄かな想い-2


 野木は何度かこの会場に足を運んだことがあるらしく、控え室までの道のりを迷いなく歩いていく。そうして見えてきた控え室の表札の下、髪の毛を黒に染めたことで好青年に変貌した矢田が、隆広たちに気づいて手を振った。

「圭介さん、お疲れ」

 労いの言葉とともに歩み寄ってきた野木の身体を、矢田は両手でがっしりと抱きしめた。

「聴きに来てくれてありがとう。今日も相変わらず可愛いな〜、翼くんは」

 頬ずりさえする過激なスキンシップは、いまや隆広にとっては見慣れた日常の一つである。そうして一通り野木にべたついたあとには必ず隆広に視線を移して、

「やあ、桜坂くん。今日も男前だね」

 両手を大きく広げて「飛び込んで来い」という顔をするのだ。

「ああ、もしかして、俺が翼くんばっかり構うから嫉妬しちゃった? 大丈夫だよ、本命は桜坂くん一人だから☆」

 などとふざけたことを抜かしてから、自分よりも一回り身体の大きい隆広を抱きしめる。

「おい、ケツ撫で回してんじゃねーよ、変態」

 背後に回された腕は、背中を素通りしてその下の尻に漂着した。最初は形を確かめるようにやんわりと、そして今度は強く揉んでくる。

「ええ、だって桜坂くんのケツすげぇいい形してんだもん……ぎゃっ!」

 レイプ魔が口にしそうな台詞を耳元で囁いた矢田に、隆広は容赦なく頭突きを喰らわせた。

「二人とも仲いいよね」

 まるでコントのような隆広たちのやり取りに、野木の暢気な声が言葉を差し込む。

「なんだか兄弟みたいだよ。すごく微笑ましい」
「こんな変態、俺はごめんだ」
「え〜、なんで〜? 俺は桜坂くんが弟だったら溺愛していたのに」
(矢田が兄だったら絶対ぐれてたな……)

 毎日のように濃厚なスキンシップを迫られては堪ったものではない。決して嫌なわけではないが、そういうことに不慣れな隆広はどうしても恥ずかしさを感じてしまう。

「今日も圭介さんすごかったよ。オケの中で一番目立ってた」
「いやいや、それほどでも。今回は練習に結構参加できたし、俺好みな曲ばかりだったからね〜。おかげで気合入ったよ」

 矢田のヴァイオリンは、明るい曲調のものよりバラードのほうがよく映える。その点今日のコンサートは静かな曲ばかりで、しかもヴァイオリンがメインのものが多かったから、余計に矢田の実力が輝いていた。
 以前バンドメンバーの中で各個人の一日の練習時間を聞いたとき、一番長く練習しているのは意外にも矢田だということが発覚した。自動車整備の仕事が終わった後、帰ってすぐに練習を始め、休みの日などはほぼ一日ヴァイオリンの音色を奏でているのだという。圧倒的な実力を持っているのも、その努力があっての結果と言えよう。
 ちなみに一番練習時間が短いのは、これまた意外にも、野木だった。彼はメンバーの中で唯一の一人暮らし。仕事をしつつ家事もこなして、となるとどうしても練習に回す時間は限られてしまうのだ。しかし、野木の場合は一日の練習時間は短くても、それを継続した年数が一番長い。ピアノも歌も物心ついた頃にはすでに熱中していたのだと言っていた。

「ところで、桜坂くんは今日のオレの演奏どう思ったのかな?」

 唐突に訊いてきた矢田の顔は、隆広のコメントが気になって堪らないという色をしている。野木に褒められたので十分ではないのか、と視線を投げかけるが、まっすぐに見上げてくる瞳は少しもぶれることがなかった。

「……正直、圧倒されたよ」

 一瞬、彼の期待に反して批判的なコメントをしようかとも思ったが、わずかながらの良心がそれを諌める。

「やっぱあんたはすごい。まるでレベルが違う」

 そう言うと、矢田はさも嬉しそうににんまりと笑み、跳ね上がるような勢いで通路を走り出した。

「腹減った〜! 飯食いに行こうぜ!」

 そんな台詞を背中に向けて叫んで、一人消えていく。

(褒められてそんなに嬉しかったのか?)

 子どもですらしないようなリアクションに思わず溜息がこぼれた。するとそばに立っていた野木がクスクスと失笑し、矢田とは対照的に落ち着いた足取りで歩き出す。

「やっぱり二人は仲いいね」


 ×××


 矢田の兼ねてからの希望により、夕食はイタリアンを食べることになった。
 隆広の大学の目と鼻の先にあるというのに、実は店に入るのは今回が初めてで、野木たちに話すとひどく驚いた顔をされた。

「こんな美味しいとこ知らないなんて、人生半分損してるよ」

 野木が大袈裟に言って、自分の隣に座るよう促してくる。

「えー、オレの隣じゃないのかよ?」

 座るなり正面の席に着いた矢田が不満げな声を上げた。

「体格いいのが二人並んで座ったら狭いだろ。それにおまえ暑苦しいから嫌だ」
「ぶー」

 尚も不満に唇を尖らせる矢田がおかしかったのか、野木が軽く噴出した。

「ホント二人は仲いいね」
「だろう? でもでも、悔しいけど桜坂くんと翼くんのほうが仲良しだよ。それこそ兄弟みたいにさ」
「そうかな?」

 ふと隆広を見上げてきた野木の瞳は、店内の淡いオレンジ色のライトを美しく映し出していた。濁りも汚れもない純粋な瞳――こんなにも綺麗な目を隆広はいままでに野木以外で一度も見たことがなかった。じっと答えを待つそれに一つ微笑んで、今度はちらりと矢田のほうを見やる。

「そうだな。矢田よりかは遥かに仲いいだろ。それに野木は可愛くて好きだぜ」

 そして野木の短い黒髪を、梳くように撫でる。

「あ〜、何オレの前でラブラブしてんの? つーか、桜坂くんオレにはそんなことしてくれないよね?」
「するわけねーだろ、アホ。おまえ相手だと暑苦しいわ。――なあ?」

 同意を求めるように野木の顔を見ると、その大きな黒目は伏せられ、顔がわずかに紅潮していた。

(やべ、もしかしていまの嫌だったか?)

 隆広としては矢田をからかう冗談のつもりだったが、野木にとってはそうではなかったのだろうか? しかし、よく考えてみれば、いい歳した男が少し上の男に頭を撫でられるなど、あまり気分のいい話ではない。

「翼くん照れてる〜。可愛いな〜」
「だって、隆広さんが恥ずかしいこと言うから」

 ――どうやら隆広の心配は勘違いだったらしい。野木は口の中でごもごもと何かを言ったあと、赤くなった顔を隆広とは反対のほうに向けてしまった。

(やべえ、いますげえ抱きしめたい)

 そこらの男がやっても何と言うことはないリアクションだが、野木はいかんせん顔が可愛い。それが手伝ってまさに可愛さ倍増と言ったところだろうか、隆広も思わず胸が熱くなるような感覚を覚え、いまにも彼に伸びていきそうな自分の腕を理性で抑える。

「なんか兄弟というより、恋人だね」
「う、うっせーよ。黙って何注文するか見とけ」
「はいはい」

 矢田のいらぬ茶化しなどいつもなら冷静に跳ね返せるはずなのに、今日は早まる鼓動に上手く言葉を繋げなくて、結局黙り込んでしまう。野木もメニューを注文するまで一言も声を発することなく、隆広も火照りだした顔を隠すようにそっぽを向くのだった。


★続く★







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