04. 仄かな想い-3
「――しっかりしろよ〜」
先ほどのイタリア料理店で、矢田に勧められたワインの味が気に入ったのか、野木は同じものを何杯も口に流し込み、見事に酔いつぶれてしまったのだった。 異常なテンションを見せるわけでもなく、また、後ろ向きに自己分析をしたあげく泣き出すわけでもなく、隆広と同じように眠気が前に来てしまうという体質は、手がかからなくてありがたい。しかし一人で家に帰らせるにはあまりにも心配な足取りだったので、その華奢な身体を背負って隆広の家まで帰ってきたところだった。
「ほら、横になっとけ」
ダブルベッドに身体を下ろし、コップに水を注いでそれを差し出す。
「ありがとう……」 「いいって。それよりも眠かったら寝ちゃっていいぞ」 「うん」
野木の目はトロンと垂れ、限界の近さを表していた。酒に対して同じ体質を持っている隆広にはその辛さが痛いほどわかる。だから眠るように促すと、部屋の電気を豆電球に切り替えて眠りやすい環境をつくってやる。 隆広も実のところこの日は疲れていて、横になればあまり時間が経たないうちに眠ってしまいそうだった。隆広の巨体がぎりぎり納まる大きさのソファに横になると、光を遮るように腕を目に当てる。
「……布団から隆広さんの匂いがする」
囁かれた声にベッドを向くと、野木が愛おしそうに掛け布団を抱きしめていた。
「汗臭いか?」 「いや、いい匂いだよ。なんだか興奮するな〜」 「変態かおまえは」
矢田が言いそうな台詞を実に楽しそうに言った野木は、隆広の突っ込みなど気にした風もなく、布団に鼻を押し当てて深呼吸を繰り返す。
「俺、隆広さんの匂い好きだよ。なんか勇ましい感じがするから」
つまり汗臭いのかと少しがっかりしつつ、それでも野木が好きと言ってくれたのは嬉しかった。
(まあ、体臭を褒められて喜ぶってのも変な話だがな。もっと褒めるとこあるだろ? ドラムとか。いや、それは初めて顔合わせたときに褒められたか。だったら他に……)
そうやって自分の長所を探り出そうとしても、何一つ出てこない辺りが実に虚しい。
「なあ野木、俺って体臭とドラム以外になんかいいとこあったっけ?」
眠りに入る気配が少し遠のいたらしい野木に訊いてみる。これで言葉に詰まられたら余計に虚しくなるだけだが。
「そんなもの、いっぱいあるよ。優しいし、面倒見がいいし、力持ちだし、なんと言ってもカッコイイ」
まさかそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった隆広は、あまり言われたことのないそれに少し照れてしまう。
「つーか俺、カッコイイのか?」 「カッコイイよ。男らしい顔に、低くて渋い声。俺はとても好きだけど」
耳に入った言葉はそのまま胸に染み込んできて、隆広の鼓動を早める。嬉しさとともに湧き上がってきた恥ずかしさは全身に熱を運び、顔が紅潮していくのを感じた。
「褒めても何も出ねーぞ」
照れを隠すように言葉を返す。
「いいところを挙げろって言ったのは隆広さんじゃないか」 「そうだけどよ〜。よくもそんな恥ずかしいことをさらさらと言えるな」 「恥ずかしいことじゃないよ。人の長所を言ってるだけだから」 「そうじゃなくてだな……まあ、いいや」
もちろん、カッコイイや優しいという言葉も照れを感じたが、何より心に響いたのは最後に口にした、“とても好き”という言葉だ。 仮にこの言葉を矢田に言われてみたとしよう。決して嫌な気はしないが、胸が高鳴るほど嬉しいことでもない。だが、野木は違った。原稿用紙一行にも満たない短いフレーズなのに、彼が口にすることによって隆広の心は歓喜に満ち溢れる。 隆広はその理由に薄々気づいていた。気づいていながら、あまり深く考えようとはしなかった。
(けどいい加減、はっきり自覚しないといけなくなったな……。俺は野木のこと、好きなんだ)
ただ人として、というだけでなく、恋愛的な感情も含めて。 もしかしたら、初めて会話を交わしたときにはもうそうだったのかもしれない。彼の素朴さを強調する短い黒髪、純粋で素直さが満ち溢れる大きな瞳、情熱的なバラードを歌う口、ピアノの鍵盤を鮮やかに弾く指――すべてが愛おしくて、堪らなかった。 二十数年の人生の中で、隆広は同性に恋をしたことなどなかった。だが、戸惑いや罪悪感と言ったマイナスの感情は一切感じない。むしろいままでの恋にないくらい、自分の中でその想いをすんなりと受け入れられることができた。
(でも、やっぱ伝えることはできんな……)
性別の壁は、いくら度胸のある隆広でも容易に超えられそうにない。たった一言でいまの関係が崩れてしまうのなら、いっそ何も告げずにこのままでいたほうがいい。
「なあ、そっちで一緒に寝てもいいか?」
でもせめて彼のそばにいたくて、訊ねる。
「いいよ」
隆広の真意を窺う気配もなく、了承の言葉はあっさり返ってきた。 ダブルベッドは男二人で寝るのもさして狭苦しくはない大きさだった。ただ、枕が一つしかないために結局密着して寝ることになる。
(そういえば、一緒に寝るのは二度目だな)
彼と初めて出会った日の夜、酒に酔ってぐだぐたになった二人は同じベッドで一夜を明かした。甲斐栄一を失ったことへの悲しみと悔しさを涙ながらに語った野木の姿はまだ記憶に新しい。 そしてあのときと同じように、隆広は野木の華奢な身体を腕の中に包み込んだ。温もりも感情も、何もかもを逃がさないようにしっかりと抱きしめた身体は、少し冷えていた隆広の身体に心地よかった。
「最近は泣いてないんか?」 「泣いてないよ。いまは生きてることがすごく楽しいから」
バンドで活動しているときの野木は、常に活き活きとしている。他のメンバーも、甲斐を失ったばかりの彼に比べればずいぶんと明るくなったと言っていた。だからいまの台詞もきっと本心から出たものなのだろう。
「心配してくれてありがとう」
野木の手が隆広の背中を掴んだ。
「みんながいるから大丈夫だよ。だから――」
言葉を区切った野木は、腕の中から隆広の顔を見上げる。彼の大きな黒目がこちらの心の中まで覗き込むかのようにじっと見つめてきて、最後にはふわりと微笑んだ。
「ずっと俺のドラムでいてください」
心の中に、何かがじわりと溶け込むような感覚がした。それはとても温かくて、すべての感情を包み込んで、心を支配する。やがて一つの塊となったそれは身体を上へ上へと這い上がっていき、ついに目頭から溢れ出そうとした。 ああ、と隆広は心の中で感嘆の息を漏らした。これが、心の底から嬉しいということなのか。嬉しいも度がすぎると、笑顔や照れよりも涙が出てくるのか。 好きな人に必要とされることがこんなにも嬉しいことだなんて、いままで全然知らなかった。だから涙を拭うことさえも忘れて、その温かい気持ちをしっかりと噛みしめる。
「隆広さん……?」
隆広が涙を流していることに気がついたのだろう、野木が心配そうな顔で訊ねてきた。
「なんでもねーよ。ちょっと目にごみが入っただけだ」
あからさまな嘘をついて、腕の中の温もりを強く抱きしめる。
「さっきの返事だけどさ」
懇願された瞬間に、その返事の内容は決まっていた。いや、懇願される前からとっくの昔に決まっていたのだ。だからいまさら何を迷う必要もない。
「俺はずっとおまえのドラマーでいるよ。どっちかが死ぬまでな」 「そう。……ありがとう」
これは一生守らなければならない約束だ。隆広はそう思った。だが、ただの“ドラマー”で納まっていられるかは正直なところあまり自信がない。それよりももっと親密な、もっと濃厚な関係になりたい。手を伸ばしてどれくらいの距離があるかもわからない未知の領域に、隆広の恋愛のベクトルはまっすぐに向いていた。
★続く★
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