05. 助言-3
静かなピアノの音色が、隆広の鼓膜を震わせた。 悲しみと寂しさを感じる音色だ。深く傷ついたかのような、あるいは一人でいることにどうしようもない不安を感じているような、切ない響きが辺りにこだましている。
(野木のピアノだ……)
ピアノの弾き手を判別できるほど隆広の耳は優れていない。しかし、なぜだかその音色は野木が奏でているのだと直感した。 彼の気配を近くに感じる。探るように手を伸ばすと、冷たい空気が指先を掠めて流れていった。
(どこにいるんだよ……)
音源は決して遠くない。むしろ数歩歩けば辿り着きそうだ。だから隆広は重い身体を起こし、立ち上がる。 辺りは深い霧のようなものに包まれていた。すぐ目の前でさえも何があるのか確認できる状態になく、隆広は聴こえてくる音を頼りに足を踏み出した。
――その刹那。
いま、たしかに隆広は音のするほうへ足を踏み出したはずだった。しかし聴こえてくる音はそれと同時に遠ざかり、小さくなってしまう。 方向は間違えていないはずだ。いまもまだ同じ方向から聴こえる。だから今度は二、三歩足を進める。 結果は同じだった。進んだ分だけ音は遠ざかり、更に小さくなってしまう。
「野木!」
隆広は思わず叫んだ。そして、今度は全速力で音源に向かって走り出す。
「野木! 野木!」
距離は間違いなく縮んでいるはずなのに、音はどんどん小さくなっていく。
「野木! 行くな!」
いよいよ音が聴こえなくなろうかというところまで来たとき、突然隆広の右半身に鈍い衝撃が走った。同時に足が地面を離れ、巨体が綺麗に宙を舞う。 驚くべきほどゆっくりと落下していく中、隆広が最後に見たのは、霧の中で妙に浮かび上がった二つのヘッドライトだった。
重い瞼がゆっくりと開かれ、辺りの景色を徐々に見出していく。 最初に隆広の目に映ったのは、漂白されたように白い、綺麗な天井だった。そして次に捉えたのはそれと同じ色の白い壁、同じ色のカーテン、その隙間から差し込む陽射しが、目覚めたばかりの瞳に眩しい。 そしてその陽射しの元、窓の外をじっと眺めている青年がいた。
「矢田」
よく見慣れた彼の端正な顔立ちが、隆広の声を聴いてはっとなる。目が合った瞬間に今度はいまにも泣き出しそうな顔になって、飛びつくような勢いで抱きしめられた。
「桜坂くんっ……よかった!」
いつもの、ふざけてベタベタしてくるときとは違い、抱きしめてきた腕の力は思いのほか強い。そして人一倍喋るはずの口は声を発さず、代わりに小さな嗚咽が隆広の耳に入ってくる。
「おまえ、なんで泣いてるんだよ……?」
普段はヘラヘラと笑っている矢田が涙を流していることに困惑し、どうしてよいかわからず、とりあえず抱きしめた。
「事故ったこと、覚えてないの?」
嗚咽混じりの声がそう言った瞬間、隆広の頭にふと浮かび上がったのは、眩しい二つのヘッドライト。ついで身体に何かがぶつかる衝撃と、宙を舞う感覚。
「そっか……俺、車に轢かれたんだった」
野木の家に向かっている途中、四つ角に出たところで右からやってきた車にはねられたのだ。あのときはもう野木のことで頭がいっぱいで、安全確認をするゆとりなどどこにもなかった。会いたい気持ちに突き動かされ、ただひたすらに走っていた。
(その結果がこれか……情けねーな)
一歩間違えば命を落としていたかもしれない。そう思うと、背中に冷や水をかけられたかのようにぞっとする。衝動的な行動はやめろ、もっと理性的になれ。隆広は自分に言い聞かせるように、そう心中で呟いた。
「身体がいてぇ……」
包帯の巻かれた頭が痛い。そして、袖を捲った腕は至るところがカーゼで覆われていた。
「そりゃ当然だよ。車に轢かれたんだから。でも、骨折もないし頭のほうも大丈夫だって医者が言ってたよ」 「……めちゃくちゃ運がいいな」
結構な衝撃と吹っ飛び具合だったにも拘らず、骨の一つも折れていないとはまさに奇跡だ。
「ここ病院だよな? いったい何日寝てたんだ?」 「そう、病院。事故ったのは昨日のこと。桜坂くんのお母さんたち、パニック状態だった」
息子が車に轢かれて意識を失っているとなると、それはパニック状態にもなるだろう。
「さっきまでここにいたんだけどね。桜坂くんの着替えを取ってくるって言って、出て行ったよ」 「そっか……。お前はいつからいるんだ?」 「ん〜と、二時間くらい前からかな?」 「二時間も人の寝顔見てて退屈だったろうに」 「いやいや、心配で頭がいっぱいだったから」
いつもの茶化す風な笑みを見せるわけでもなく、至極真面目な顔で矢田は言った。
「……ありがとな」 「仲間のこと、心配するのは当然じゃん。他のみんなもすごく心配してたんだからな」 「あいつらも来たのか?」 「当然だよ。特に翼くんなんか、いまにも泣きそうな顔してたよ」
一度見たことのある彼の涙は、この世にはいない過去の人が、心に深々と残した傷が原因だった。しかし、今回彼に悲しい思いをさせてしまったのは、この自分。それを思うと己がすごく憎らしく、そして情けない人間に思えて隆広は項垂れた。 しかも、彼の心に傷跡を残すこととなったきっかけは、隆広と同じく交通事故が原因だった。隆広が助かったとはいえ、二度も身内が交通事故に遭ってしまうなど、精神的に大きなダメージを負ったに違いない。
「野木に謝らねーと……」
自分の不注意で、塞ぎかけていた彼の心の傷を抉るような結果を招いてしまったことを。謝ってどうにかなるようなものではないかもしれないが、それでも謝罪して、傷ついてしまった心ごと抱きしめて、またいつものように笑い合いたい。
「身体が治ってからね。たったいま目を覚ましたばっかなんだし、安静にしてないと駄目だよ。それに翼くんだったら今日もここに来ると思うし」
起き上がった隆広の姿を見て、彼は一体どんな顔をするだろう? やはり安心してないてしまうだろうか? それとも胸を撫で下ろして、柔らかい笑みを浮かべてくれるだろうか? どちらにしても、早く野木に会いたかった。そして真っ先に謝りたい。 そう強く思ったとき、病室の扉が開く音がした。さっと入ってきた長身の男は、印象的な垂れ目をちらりとこちらに向け、その目を少しだけ見開いた。
「崇……」
事故の直前、最後の会話を交わしたのは崇だった。そして、彼の顔を見た瞬間に大事な約束を交わしたことをふと思い出し、隆広は打ち付けそうな勢いで頭を下げた。
「約束守れなくて悪かった。あいつを傷つけてしまった……」 「……いや、あんたは約束を破ったわけじゃないだろ。だって、俺との約束は“死なないこと”だ。いまあんたはこうして生きてる」
落ち着き払った声が隆広を宥めるようにそう言って、息をつく。
「本当無事で良かった。けど……」
隆広が頭を上げたとき、崇の顔にはばつの悪そうな表情が浮かんでいた。見慣れないそれに少し見入っていると、彼の口から衝撃的な言葉が吐き出される。
「翼が睡眠薬を大量に飲んで倒れた」
★続く★
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