05. 助言-4


 隆広は心臓の畏縮する音さえ聞こえてきそうなほど驚いた。同じように驚愕の顔をして硬直した矢田の息を呑む音が、一瞬にして静まり返った病室に響き渡る。

「……胃の洗浄して、いまはぐっすり眠ってる。命に別状はない」

 言葉を失った隆広たちの代わりにたかしが、睡眠薬を大量に飲んで倒れたという野木の現在の状態を言った。すると安堵したのか、矢田が深く息をつく。だが、隆広はその言葉を聞いても安心できなかった。

「……俺のせいだ」

 自分が事故に遭ってしまったから、きっと野木は罪悪感を抱いてそういう行動に至ったのだろう。何せ身内が交通事故に遭うのは今回で二度目。もしも隆広が彼の立場なら、たとえそれが真実でないとわかっていても、自分に何か憑いているのではないかと思ってしまう。
 彼の容態を実際にこの目で確認したい。そして、過去の心の傷を抉ってしまったことを謝りたい。とりあえずはこの邪魔な点滴をはずして……

「何してんだよ、桜坂くんっ!」

 点滴を固定しているテープを剥がし、そのまま針を引き抜こうとした隆広の手を、矢田の強い声が制す。

「いますぐあいつに謝らねーといけねーんだよ! 俺のせいで、自殺までしようとしたんだぞ!」

 野木の心は決して強くない。むしろ脆いと言ってもいいだろう。初対面の隆広に、彼が一年半も引きずってきた甲斐栄一の死に対する悲しみを、涙という形で見せるほど。

「身体治してからってさっきも言ったじゃん! 無理に動いたら桜坂くんのほうがまた倒れちゃうよ!」
「いますぐじゃねーと意味ねーんだよ! おまえが悪いんじゃなくて、俺が悪かったんだって言ってやらねーと、あいつは……」

 野木は自分自身の存在を恨んで、また同じ過ちを犯してしまうに違いない。

「眠ってるあいつに謝ったってどうしようもないだろう」

 崇の落ち着き払った声が、いろんな感情が混ざり合って煮えたぎった隆広の頭に、水を浴びせるように遮る。

「それはただの自己満足だろ。本当に悪いと思っているなら、せめてあいつが起きてからにしろよ」
「自己満足……」

 核心を突かれた、と思った。もちろん野木に申し訳ないと思っている気持ちは嘘ではないが、いま隆広が感じている罪悪感の念が謝ることによって軽減されると思っているのもまた事実である。自己満足、という崇の言葉がまさに合致していた。

「ここから先はもう俺たちじゃどうしようもできない。だから翼のことはあんたに託すよ。だから、感情的になって適当な台詞吐くんじゃなくて、もう一度よく頭の中整理してからあいつに会ってくれ」

 そこで崇は初めて柔らかい表情をした。

「あと、あんただけが悪いってわけじゃねーよ。翼だって悪いんだ。いい年した大人なのにいつまでに強くなれないで」
「……年上の前でいい年した大人とか言ってんじゃねーよ」

 そう突っ込むと、崇は次に悪戯な笑みを浮かべる。そしてそのまま何も言わずに病室を出て行った。
 本当は、彼は隆広のことを責めたかったのかもしれない。故意でないにしろ、大切な友達を自殺未遂に追い込んだのだ。隆広が逆の立場なら間違いなく事故に遭ったほうを責めていただろうし、ひどく罵っていたと思う。
 それをしないで野木を託したということは、彼はきっと隆広に何かしらの可能性を感じてくれているのだ。野木が幸せを掴むことや心の成長といったものを。
 大人だな、と隆広は感心させられる。それに比べて感情に身を任せて行動しようとする自分のなんと情けないことか。

「悪かったな、矢田」

 点滴の針を引き抜こうとしていた隆広の手を、彼は未だに強い力で押さえている。こんなにも自分のことを心配してくれている相手を怒鳴ってしまったことがひどく申し訳なかった。

「いいんだよ。気持ちはわかるから。でも、もう少し冷静になって」

 すっと力の抜けていった矢田の手は、剥がれてしまった点滴を固定するためのテープを元のように貼り直す。

「翼くんが倒れているっていうのに、桜坂くんまで倒れちゃったらオレや崇まで参っちゃうよ。だから冷静になって」
「ああ。すまん……」

 諭すような優しい物言いに、隆広は更に申し訳なくなって、もう一度謝罪の言葉を口にする。すると矢田は一つ笑って、元いた窓側の椅子に戻っていった。

「――そういえば、栄一くんが死んだときも翼くんは自殺しようとしたな」

 独り言のような調子で放った言葉に、隆広は思わずはっとなった。

「そうなのか?」
「そう。しかもやり方もまったく同じだよ」

 自殺未遂が過去にもあったというのは驚きだが、しかし野木の性格を考えるとあってもおかしくない話である。

「結局、そのときも今回と同じで致死量には至らなかった。でも、退院した後はずっと家に閉じこもりっぱなしで、しばらくオレたちとは会ってくれなかったな〜」

 悲しみに暮れて自室で泣き続ける彼の姿が容易に想像できる。何も考えることができず、食事さえも忘れてしまい、行き場をなくして胸の内に溜った想いが涙となって溢れるばかりだったに違いない。

「でもそういうのって、やっぱり時間が解決してくれるんだよ。しばらくしたらちゃんとオレらの前に顔見せるようになったし、最初は全然元気なかったのが、いまじゃすっかり明るくなったからね」

 隆広が初めて会話したときの彼は、そんな暗い過去などなかったかのような、明るい表情をしていた。無理してそう振舞っているようには見えなかったし、重い過去だという自覚はあっても、それが少しずつ“思い出”という形に変わりつつあったのではないだろうか?

「今回もきっと時間が解決してくれるよ。でも、そうだな〜。桜坂くんもわかっていると思うけど、一つ大きな障害があるかな」
「……身内が事故に遭うの二度目だってことだろ?」

 甲斐栄一のときはショックのあまりに自殺未遂に走ったが、今回の動機はそれよりもきっと、野木が自分自身を呪っているという線が大きいように思う。たとえこうして隆広が生きているにしても、何かしらの警告だと受け取っていたとしてもおかしくない。

「崇も言っていたけど、だからって桜坂くんが責任を感じることはないんだよ。単に運が悪かっただけなんだから」

 それに、と矢田は窓の外に目をやった。

「オレも崇と同じで、翼くんは強くならないといけないと思うわけよ。栄一くんのことがあったから、きっと桜坂くんへの気持ちに対して前向きになれない部分があったと思う。今回のこれで更に後ろ向きに傾いちゃったかもしれないけど、そんなことで自分の想いを切り離してたら、いつまでも幸せになれないと思うんだよね。だから強くなって、自分に正直に生きてほしい」

 そのほうがきっと楽しい人生になるだろうな、と矢田の言葉に隆広は頷く。

「オレも翼くんが立ち直れるようにできる限りのことはするよ。でもやっぱりあの子にとって重要なのは桜坂くんなんだ。相談にも乗るから、頑張ってみて」
「言われなくてもそうするさ。……ありがとう」

 普段のバンドの練習以外の矢田は、お調子者で遊び人な雰囲気を放っていて、とても頼りになるようには思えない。それが蓋を開けてみるとこんなにも人の性格や気持ちを理解していて、とても頼りがいがある。そんな人間が野木のそばに――いや、自分のそばにいることに感謝しなければならないだろう。
 そして――と隆広は決意したようにまっすぐに矢田を見据えた。

「おまえの気持ちを知っていながら、こんなんでごめんな」

 矢田が野木に好意を抱いていることは、彼と出会ったときから知っていた。自分はバイセクシャルで、野木と付き合えるなら付き合いたいと思っている、と電話の向こうで矢田が言ったのを忘れたことはない。
 だからと言って矢田に譲る気などまったくなかった。隆広は自分の気持ちに正直になり、そのように行動する。しかし何も言わないのはフェアでない気がして、この場で一言断りを入れたのだった。

「別に謝ることなんかないんだよ。二人が幸せになれるんだったら、オレはそれでいいんだ。少し悔しい気はするけどね」

 ニッと笑った顔には別段悲しむような気配も、隆広と対峙しようとしている気配もない。

「それにオレには崇がいるから」
「いったいどんな組み合わせだよ」

 そもそも矢田と崇が会話しているところなど、この一月の間に片手で数えるくらいしか見たことがない。二人きりにしたらいったいどんな雰囲気になるのだろうかと想像しようとするも、なんだかはっきりとした絵が浮かんでこなかった。

「あ、そうだ」

 ふと、一度だけ崇が矢田の印象を話したことがあるのを思い出した。嫌われているのではないかと悩んでいる矢田に対して、崇はそのまったく逆の印象を抱いている。

「実は崇はお前のこと――」

 これは心配をかけた謝罪の意と、隆広と野木との関係を気にかけてくれているお礼だ。そう自分に言い聞かせて、隆広は先日コーヒーショップで聞いた、崇の矢田に対する印象を本人に話すのであった。


★続く★







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