06. 愛の言葉の行く先-3
キャンパスから霞んだ冬空の下に出た隆広に、冷たい風が責めるように吹きつけた。いくら着込んでも冷たいことに変わりのない冬の空気に、嫌気さえ感じる。それでも、肌にまとわりつくような夏の暑さに比べればずいぶんとマシだ、と広場を歩きながら思った。
(さて、今日も行きますかね〜)
どんなに寒くても、大学の講義を終えた隆広が向かう場所は、ここ一週間ほど変わらない。電車で一駅ほど行って、少し歩いたところにある“彼”の家だ。 ただ玄関先に佇むことしかできないとわかっているのに、隆広はまるでエンドレステープのように同じことを繰り返していた。
「――隆広さん!」
自分を呼ばわる声がしたのは、大学の門をいましも通り抜けようとしていたときだった。 その声は、ずいぶんと久しぶりに聞くものだった。そして、おそらく隆広が生涯を通して決して忘れることのない声。
「野木……」
声の主――野木翼は隆広の正面に立って、少し弱く微笑んだ。 そうか、と隆広は昨日会ったばかりの崇の顔を思い出す。どういう手を使ったのかはわからないが、彼が泥沼状態の現状を打破してくれたのだ。信じていたとはいえ、こんなにも早く野木との再会が叶うとは思ってもみなかった。だから、驚いてしばらくの間何も言えずに、その久しぶりに見る想い人の顔を凝視していた。
「……少し痩せたな」
ようやく喉を突いて出た言葉に、野木はそうかな、と首を傾げる。
「もう、二度と会わないつもりだった」
まっすぐに隆広の目を見返してくる彼の大きな黒目は、真剣な色を灯して静かに告げる。
「でも、やっぱり無理だった。ずっと隆広さんに会いたくてしょうがなかったんだ」 「それは俺も一緒だ」
客観的に見ればたった一週間と少しの空白。だが、隆広にとっては一年くらい月日が経過してしまったように感じられた。ようやく顔を見ることができて、会話をすることができて、心の底から嬉しい。
「馬鹿なことしてごめんね」
ひどく申し訳なさそうな顔をして、野木は頭を下げる。
「おまえが謝ることなんか何もねーんだよ。悪いのは俺だったんだから。――心配かけて悪かった」
そうして同じように隆広が頭を下げると、野木はそんなことない、と言って両手で隆広の顔を軽く持ち上げる。
「謝らないで。隆広さんは悪くないよ。でも、車には気をつけてほしい」
ああ、と頷いて、隆広は野木の華奢な身体を引き寄せる。腕の中に包み込んだ身体は、やはり以前よりも少し細くなったような気がした。おそらく、彼の中でも様々な葛藤があり、それが大きなストレスとなっていたに違いない。野木はそういう人間だから。 だが、そういうところも決して嫌いではなかった。人間誰にだって足りない部分というものはあるのだ。彼の足りない部分は、隆広が支えてやればいい。そのように、お互いを支え合っていける関係が隆広の理想だった。
「野木――」
そうなるためにも、まず伝えなければならない言葉があるだろう。あの事故の日に届けることのできなかった、たった一言を。何度も頭の中で練習した、どんな言葉よりも重いそれを。
「好きだ」
腕の中の存在が、愛おしくて堪らなかった。このまま家に持ち帰って、自分だけのものにしてやりたいくらいに。
「俺もだよ」
優しい声色に乗って返ってきた言葉に、隆広は胸を撫で下ろした。
「どうしていいかわからなかった。隆広さんが事故に遭ったの、やっぱり自分のせいに思えてならなかった。でも、それは少し違うんじゃないかなっていう思いもあったんだ。それをずっと考えてて、結局自分じゃ答えを見つけられなかった。そしたら、崇が昨日……」
野木が隆広の胸に押しつけていた顔を上げる。
「おまえがこのままで終わるつもりなら、俺が隆広さんと付き合うって言ったから」 「……マジで?」
マジ、と野木は至極真面目な顔で頷いた。
「それ聞いて、目が覚めたっていうか、それは悔しいなって思ったんだ。隆広さんを他の人に取られるなんて耐えられない」
いったいどんな手を使って野木を改心させたのかと疑問に思っていたが、なるほど、崇も大胆なことをするものである。まあ、方法がどうであれ、こうして再会するに至れたことは非常に喜ばしいことだ。崇には感謝しなければならない。
「実は、初めてドラム叩いているところ見たときから好きだったんだよね」 「そうなのか?」 「うん。すごくカッコよくて、この人とお近づきになりたいなって思った」
隆広の恋心のスタート地点が、ライブハウスで初めて野木の演奏を聴いたときかと訊ねられると少し自信がない。しかし、あのとき彼の演奏に感動し、興味を持ったのは間違いなかった。二人の関係が始まるきっかけとなった出来事、という意味では、あの日のことをスタート地点と言ってもおかしくはないだろう。 野木の短い髪を梳くように撫でると、あどけなさの残る顔が綺麗な微笑みを浮かべる。再び見ることのできたそれに安堵するように息をついて、もう一度強く抱きしめた。
「愛してる」
そしてもう一度、溢れんばかりの想いを噛み締めて、その言葉を口にする。
「俺も愛してるよ」
野木の声に、少し嗚咽が混じっていた。泣くなよ、と優しく宥めると、彼は慌てて服の袖で涙を拭う。
「――あっれ〜、隆広何やってんの〜」
感動的な場面に、おおよそ空気の読めない暢気な声が割って入ったのは、隆広が抱きしめる腕の力を強くしたときだった。
「って、うわぁ!?」
さっと振り返ると、学内の友人である秋葉康介が、宇宙人でも見つけたかのような驚いた顔で硬直していた。それでようやく、ここが大学の門であることを隆広は思い出す。
(あ〜……やっちまった)
男同士で抱き合い、甘い雰囲気を醸し出していたら、それは秋葉でなくても同じようなリアクションをとるだろう。あるいは嫌悪も露に通りすがるか、はたまた面白がって携帯のカメラ機能を稼動させるかである。 秋葉がこんなことで友人関係を切ったりするような、理解のない人間だとは思わないが、一応それなりの言い訳をしておいたほうがいいだろう。そう思って言葉を模索していると、秋葉は急に表情を引き締め、
「すまん。ごゆっくりーっ!!」
叫ぶようにそう言って、元来た道を戻っていった。 はあ、と隆広は大仰に溜息をつく。
「なんか、すまん。周りが見えなくなってた」 「いや、俺も同じような感じだったから」
野木は少し苦笑し、くるりと踵を返す。
「帰ろう」 「ああ」
そうして霞んだ冬の空の下を、二人は並んで歩き出した。 責めるように吹きつけていたはずの冷たい風は、いつの間にか止んでいた。
★続く★
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