10. 好き、のヒトコト
身に凍みるような寒さでボク――アルティア・グラブドは目を覚ました。いつもより一段と寒いと思ったのは決して気温だけのせいじゃない。服を身にまとっていないからだ。
自分のあられもない姿に驚き、慌てて布団に潜り込む。その行為の無意味さに気がついて、更に潜る。
ふと、いつもの温もりがないことに気がついた。起きたときに必ずボクの隣にあり、温めてくれる存在が、ない。
「トレス〜?」
手探りで彼の身体を見つけようとするが、どこに手を伸ばしても布団の感触しかしなかった。とりあえずボクは身体を起こす。
寒々とした静かな冬の朝。部屋には誰の姿もない。
ベッドの傍に落ちていた自分の服を着、家中を捜索してみる――どこにもトレスの姿はなかった。
「あれれ? どこ行っちゃったんだろ?」
まさか昨日のことで怒って出て行ったとか? そんなわけないか。きっと食料の買出しにでも行ったに違いない。――電話のベルが鳴ったのはそのときである。
「もしもし〜?」
『おはよう、アルティアくん』
受話器の向こうで愉快に挨拶したのは小父さまだった。
『急なんだけどね、トレスくんをメンテナンスのために預からせてもらったよ』
本当に急なことだったので驚くボク。
『あ〜でも心配しないでくれたまえ。二、三日あれば終わるから』
「はあ……」
『寂しいかもしれないけど、我慢するんだよ。それじゃ』
ボクが返事をする間もなく会話は打ち切られた。
メンテナンス、か……。二、三日――短いようで、とてつもなく長い気がする。昨日せっかくトレスと一つになれて、これからラブラブな(?)生活が送られると思ったのに……先送りですか。
しゅん、と項垂れるボク。寂しくて、死んじゃいそう。
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「――寂しいかもしれないけど、我慢するんだよ。それじゃ」
本やノートが散らかり放題の部屋、トレスは電話の受話器を置いた“教授”――ウィリアム・ウォルター・ワーズワースの若干老けた顔に感情のない視線を注いでいた。今彼が電話した先はアルティア・グラブド宅と推測される。メンテナンスのためにトレスを預かるなどと言っていたがそれはまっぴらな嘘。本当はトレスが勝手に訪ねてきたのだった。
「それでトレスくん、話っていうのは何かね?」
単刀直入に訊かれ、トレスは自分が訊こうとしていたことを口にしようとしたが、なぜか上手く表現できずに押し黙る。言葉が出てこない、というのは初めてのことだった。
「俺は……何なのだ?」
咄嗟に思いついた質問がどれだけ意味不明なことか、トレス自身よく分かっている。事実、愛用のパイプを咥えた教授は、その老けた顔に不思議そうな表情を浮かべていた。
「君にしては無防備な質問だね〜。何、とは君の実態についてかい?」
肯定、とトレスは頷く。
「俺は機械なのか? それとも……」
「そんなくだらないことを訊きにわざわざここに来たのかい?」
自分の心を乱している大きな悩みを“くだらない”と言われてトレスは少しだけ腹が立った。その“腹が立った”という怒りの感情を今まで感情だと思ったことがない。でも今はそれが自分の感情であり、自分が機械ではないことを少なからず確信している。
「そんなの簡単だよ、トレスくん」
教授は穏やかな微笑みを浮かべた。
「君は人間だ。そりゃあ、確かに身体は機械かもしれない。でも君には心がある。誰かを守りたい、誰かを助けたい、そういう感情があるんだろう?」
「……分からない」
「うん、あれだけ自分を機械だと主張してるんじゃ、分からなくて当然だね。しかしどうして突然そんな疑問を?」
「……」
トレスはまた黙り込む。今度は思いつく言葉もなかった。
「……違ってたら悪いんだけど」
居心地の悪い沈黙を破ったのは教授――ウィリアムのほうだった。
「トレスくん、君誰かに恋しちゃったんじゃないのかい?」
「恋……?」
「そう、恋。誰かに好意を抱いているんじゃないのかい?」
「……分からない」
はあ、とウィリアムは溜息をつく。
「分からないばっかりだね〜。まあ、仕方がないけど。でもまさか、君が誰かに恋をする日がくるなんて思ってもみなかったよ。その、好きかどうか分からないっていうのはどんな人だい?」
「……アルティア・グラブド」
ぽろん、と教授の口からパイプが落ちる。妙な表情を残したまま硬直してしまった。
「ア、アルティアくんって!?」
「……何かおかしいか?」
「い、いや別に……ただちょっと意外だっただけだよ。いいねぇ、青春」
乾いた笑いを漏らしながら教授はパイプを拾う。その煙の出るほうを咥えそうになったのに気づいて、顔をしかめた。
「それで教授。俺はどうしたらいい?」
「どう、とは?」
「俺がアルに好意を抱いているとして、俺はどうしたらいい? なんだか落ち着かない」
なるほどねえ、とウィリアムは椅子に腰掛ける。
「アルティアくんには何も言ってないんだろう?」
「肯定。たが……」
「だが……?」
人形めいた端整な顔立ちのトレスは無表情のまま俯いた。
「まさか……抱き合ったりキスしたりなんてこと、したのかね?」
「……肯定」
ウィリアムは再びパイプを落としそうになったが、今度は意識して強く咥えたためにそれを防ぐことができた。だがやはり驚愕の表情だけは抑えられなかった。息子のように可愛がったアルティアと、これまた息子のように世話をしてきたトレスがデキてしまうとは……本当に衝撃的である。
「それはその、合意があっての上でヤったのかい?」
「肯定。最初にアルが言い出して、俺は許可した」
「なるほどねぇ。つまり二人は両想いなわけだ。なるほどなるほど。トレスくん、結論は一つだ」
探偵めいた、凛とした表情をすると教授は紫煙を吐いた。
「トレスくん、アルティアくんに“好き”と言ってあげるといいよ。きっと彼は君にそう言ってもらいたいんだと思う。そして、彼の傍にいてあげるんだ。それが彼にとっても――そして君にとっても、幸せなことだと思うよ」
ウィリアムは微笑む。
「分かったらアルティアくんの元へ帰りなさい。きっと君がいなくて寂しがってる」
トレスは無表情で頷いた。
息子が結婚すると聞いた親の気持ちが、ウィリアムには少し分かった気がした。ウィリアム本人には血縁のある子はいない。その代わりに、と言っては何だが、アルティアやトレスがウィリアムにとって血縁のある息子と同等の価値があったことには違いない。二人とも大切で、本当の息子のようであった。その大切な息子のような存在が――息子同士、という異色のカップリングではあるが、それでも幸せになろうとしている。そしてそれは、ウィリアム自身の幸せでもあった。
「トレスくん……結婚式には招待してくれたまえよ」
「……肯定。メモリーに――いや、頭の片隅に記憶しておく」
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