終. 優しさの最果て


 一度でいいからトレスの口から「好きだ」と言ってほしい。ボク――アルティア・グラブドは、寂しさの湖に沈みかけている胸の片隅でそう呟いた。
 彼がメンテナンスに向かって数時間が経過した。ボクにとってはそれが何日も過ぎたように思える。これが大切な温もりが離れてしまったときの辛さ。――インターフォンが鳴ったのはそのときだった。
 時間的にトレスではない、と判断した。小父さまの第二研究所はさほど遠くないとはいえ、飛行機で片道五時間。往復するのに十時間かかるし、メンテナンスも長いだろうから、夕刻間近の現時刻にトレスが帰ってくるわけがない。きっとシオンか誰かだろう。
 いそいそと玄関まで行き、念のためドアスコープでドアの向こうの様子を見てみる。最初に目に入ったのはオレンジブラウンの髪の毛。そして次には人形めいた男の端整な顔立ち。無表情に佇むくだんの人物は、石像のように動かない。

「トレス!?」

 彼の名を呼んだのと、ドアを勢いよく開いたのはほぼ同時だった。
 開いたドアの向こう、ボクの大好きな彼は無表情に頷く。

「早かったね」

 まさかトレスが帰ってきたとは思ってもみなかったボクは嬉しさで少し泣きそうだった。

「教授の開発した新型のジェット機で送ってもらった」
「そっか」

 今にも抱きつきたい気分だったが、家の前の道には人通りがあったのでとりあえず押さえておく。いそいそと家に上がって、ぎこちない動きでトレスを中に招き入れた。

「何も言わずに行っちゃったから心配しちゃった。小父さまの電話がなかったらボク心配しすぎて死んでたかもよ?」
「……すまない」

 本当に悪びれた様子に内心で驚きつつ、ボクはトレスの持っていた鞄をリビングの隅に置く。その動きを射るような視線で見ていたトレスを黙殺し、そばにあるパソコンのディスプレイの電源を切った。

「風呂に入りたい」

 何の前触れもなく降りかかったトレスの言葉にボクはきょとんとしてしまった。振り返ると、左右色の違った瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。

「準備しよっか?」
「……そういう意味で言ったのではない」

 はい、と短い疑問符を飛ばすと、トレスは視線を自分の足下に落とす。

けいと一緒に入りたい……」

 ぽつん、と小さく漏らした一言にボクは赤面してしまう。

「な、なんでいきなり誘うの!? いっつも一緒に入ってるじゃん。誘わなくても一緒に入るよ。もう、ハレンチなんだから」
 内心でトレスの勧誘に喜びつつ、ボクは揶揄やゆするように言った。


 +++


「ねえトレス……」
「なんだ?」
「……こっち向かないでね」

 湯気の立ち込める風呂場、短い忠告をボクは口にする。
 なぜ、とトレスは訊くと同時に振り返ろうとしたが、すっと手を伸ばしてそれをとめることに成功した。

「恥ずかしいから」
「なぜ恥ずかしい?」

 再度振り返ろうとした端整な顔立ちを押し留め、頭の中からもっともらしい理由を検索する。

「だってさ、ボクはトレスと違ってヒョロヒョロだし……あまり見られたくない、かな」
「俺は別に卿が痩せ型であることをおかしく思わない。それに昨日、卿はベッドの上で全裸だったはずだ」
「あれは暗かったから」

 さっとトレスが振り返ったのはそのときだった。隙を突かれた、と思うがすでに遅い。光らないトレスの瞳はしっかりとボクの全身を見渡している。
 咄嗟とっさのことで隠すこともできずにボクは硬直してしまった。更に、拷問のようにトレスが思わぬ行動に出る。
 ぐっと身体が引き寄せられたかと思うと、ボクの細身はトレスのがっちりとした腕の中に納まっていた。

「……トレス?」

 抱きしめたまま何も言わないトレスに問うたが、彼は言葉の無意味さを語るように黙っていた。

「――卿は」

 平坦な声が長い沈黙を破ったときには、ボクの身体はトレスの腕から開放されていた。まっすぐに見つめてくる左右違った色をした瞳は、すべての生命の母であるかのように優しい。

「卿は俺のことが好きか?」
「うん……」

 反射的に首肯すると、トレスはボクの心中を覗き込むように見てくる。

「俺のどこが好きだ?」

 無感情だが微かに不安分子を含んだ声がボクの鼓膜を震わせる。ボクはトレスの背に腕を回すと、顔を彼の頬にすり寄せた。

「優しくて、温かいところ。愛想悪いけど人間らしいところ、かな」

 再びトレスの腕に抱かれ、冷えた肌が一瞬にして温まる。全身に伝わるトレスの温もりが心にまで流れ込むようだった。

「俺も、卿のことが好きだ」

 熱さえ帯びた言葉が甘い吐息とともに耳に触れ、下半身がじん、と熱くなる。鼓動が徐々に早くなっていくのを感じながら、ボクはゆっくりと顔を上げた。
 優しい色を灯した瞳と視線が交わる。そして自然とその僅かな顔と顔との距離を詰めて、トレスの柔らかい唇とボクの唇が重なった。


inserted by FC2 system