02. お父さんの場合-1


 この玄関の戸を開けることに躊躇いを感じるようになったのは、いったいいつからだっただろうか?

 自分んちってのは本来ならどこよりも落ち着ける場所じゃねえといけねえはずだ。だが俺にとってそこは息の詰まるような場所であって、むしろ学校のほうが気を抜ける場所と言ってもいい。
 ドアを開けるとその先には不気味なほどの沈黙が舞い下りている。母さんがいるときは絶対にテレビの音が聞こえるはずだから、たぶんいまは親父しかいねえんだろう。うう、最悪だ。
 家の中で唯一落ち着ける自分の部屋に速攻で逃げ出したいのも山々だが、見たいテレビ番組がもうすぐ始まっちまう。この家にテレビはリビングの一台しかねえから、それを見るには嫌でもリビングに行かなきゃならねえ。

 無音のリビングには、予想どおり難しそうな本に目を落とした親父の姿があった。一般人なら希薄な気配に家具と同化しているようにさえ思えたかもしれねえ。だが俺には親父から伝わってくるんだ。重々しくて威圧的なオーラが。
 そんなもんいちいち気にしねえけどな。つーか、気にしてたらこの家じゃ生きていけねえよ。ただいまの挨拶もなく無言で部屋に入り、テーブルの上のテレビのリモコンを手に取った。

「――勉強はどうした?」

 そんで電源ボタンを押したわけだが、テレビの音声より先に親父の咎めるような声が俺の鼓膜を震わせた。

「期末テストも近いんだろう? ただでさえ成績が悪いんだ。テレビなんて見ている暇はないだろう」

 くそ、人が楽しみにしていた番組を見ようってときに茶々を入れやがって。今日までワクワクしていた気持ちが一瞬にして霧散しちまう。

「おい、聞いているのか?」
「うるせーな。勉強、勉強っていつもうるせーんだよ! そんなに勉強できることが大事なのか!?」
「なんだその口の聞き方は!?」
「まあ、一流大学をお出になられた親父には頭の悪い俺の気持ちなんて全然わかんねえだろうけど」
「おまえ……!」

 いまの台詞は相当頭に来たんだろう。歳の割に若く見える男前な顔は怒りに染まり、いまにも殴りかかってきそうなほどの気迫が感じられる。これは早いうちに退散したほうがよさそうだな。テレビのほうはケータイのワンセグで見れねえこともねえし、すぐに自室への逃亡に移った。

 こんなやり取りをするのは何も今日が初めてじゃねえ。むしろ飽きるくらいに繰り返してきたことだ。
 昔はそれなりに仲のいい親子だったはずなのにな。一緒にキャッチボールしたり、夏休みの工作を手伝ってもらったり、いまみたいな険悪なムードなんてこれっぽっちもなかった。だが、中学に上がって初めての中間テストでブービー賞を取ってから、親父の口から勉強しろという言葉が頻繁に出るようになった覚えがある。
 もちろん一番の原因は俺にあるってわかってんだぜ? だが人には得意、不得意ってもんがあるだろ? 俺の場合はたまたま不得意分野に勉強全般が合致しちまったわけで、それはもうどうしようもねえんだと思う。それなのに口を開けば勉強はどうした、テストはどうだった、なんて言われたら俺も反発的な態度をとっちまいたくなる。そんでそれを見た親父が更にキレるというのがお決まりのパターンになりつつあった。

 テストの結果を見せれば毎度どやされ、説教され、挙句の果てにお前は馬鹿だと罵られ……すげえムカつくし、すげえ悔しかった。だから今度は親父を見返してやろうと奮闘したこともあったが、結果は出せずに終わっちまうことばかりだ。
 だが、この期末テストは違うぜ? 取って置きのいい方法を見つけ出したんだ。いや、カンニングとかじゃねえぞ? そんなせこい手を使って親父を見返しても、何も嬉しいことなんかねえ。そうだな、いい方法っつーか、いい先生を見つけたっつったほうがいいかもな。


 ◆◆◆


「お前のここ、すげえ硬くなってる」

 言葉のとおり、自分でもそこが強張っているのがわかる。坂上はそこに指で触れ、軽く押してきた。

「待てって。まだ心の準備が……」
「もう駄目。さっきから散々待たされてるんだ。大人しくやられろ」

 うつ伏せになった俺の背中に軽く乗っかっていた坂上の身体がそっと離れた。いよいよそんときが来ちまったらしい。拭いきれねえ不安に身体を震わせると、坂上が優しく頭を撫でてくれる。

「大丈夫だ。そんなに怖がるなよ」
「だって……だってよ〜」

 初めての体験なんだぜ? 怖くならねえほうがおかしいっての。
 俺の泣き言もいい加減聞き飽きたのか、坂上はもうすぐにでも始められる態勢に入った。

「いくぞ」
「お、おう……」

 そしてついに坂上の指が俺のそこに押し入ってくる。

「いで、いでででででで!! ギブ、ギブ!! やめろー!!」
「……おまえ普段だらけた姿勢で授業受けてるんだろう? だからいざちゃんとした姿勢を続けたとき、腰と肩に力が入るんだ」
「わかったから! わかったからもうやめて下さい!!」

 いまの会話を聞いて、エロい場面が繰り広げられていると誤解したやつも少なくねえだろう。残念ながら坂上の指が押しているのはいやらしい部分じゃなくて、俺の腰のツボだ。
 ちなみにここは坂上の部屋のベッドの上で、こいつの部屋に来たのは勉強を教えてもらうためだ。そう、いい先生を見つけたっつーのはこいつのことだったりする。

 坂上は優等生な見た目のとおり、成績も俺とは話にならねえくらい優秀で、席次も一ケタ台と、俺の親なら泣いて喜ぶくらいの位置をキープしているらしい。成績優秀といえば友達の国木田を頼るという手もあったが、あいつは塾やら何やらで忙しいそうだ。
 もちろん同じ高校生という立場にある坂上にも同じ時期――つーか、同じ日にテストがあるんだが、南高もだいたい同じくらいのテスト範囲らしく、俺に教えることは復習にも繋がるからと快く引き受けてくれた。
 勉強を教える交換条件でっつーのも変な話だが、マッサージのモデルをやってくれねえかと頼まれた。いや、そこは普通教えてもらうほうがマッサージして差し上げるところだろう。まあしかし、坂上は将来マッサージ師になりたいらしく、モデルを頼める人がいないため、それがいいと食い下がった。
 そんでいまは休憩がてらマッサージしてもらってたってわけさ。俺のケツの上に跨って、教本を見ながらここかそこかと指で押してくる。

「……つーかさ、おまえ勃起してねえか?」

 パンツ越しに生温かくて硬い感触を感じる。気づいたのは結構前のことで、指摘しようかやめとこうか迷ってたんだが、あまりの自己主張の激しさに放置していることができなくなった。

「おまえがいやらしい声を出すからだ」
「いやらしい声なんて出してねえよ!」
「いや、出してた。誘ってんのかと思うくらいに」

 デカイ図体が俺の背中に覆い被さってくる。硬くなったチンコを俺のケツにいやらしく押しつけながら、耳元で熱い吐息を漏らした。

「……一発抜いとくか?」
「うん。ごめん……」
「いいって。実は俺もさっきから勃ちっぱなしだから」

 俺は背中や腹を這う坂上の指の感触に興奮しまくっていた。ズボンに張ったテントを見せつけると、坂上は笑う。

「やる気満々」
「うるせえ」

 それから二人は互いにはち切れそうなくらいに膨らんだチンコを口と手でイかせて、そのあとは再び俺の勉強を見てもらうことになった。
 坂上は教えるのが上手い。馬鹿な俺にもわかりやすく簡潔な説明をしてくれるおかげで、いままではまったく歯が立たなかった問題も、徐々に解けるようになってきたぜ。やっぱりおまえにはマッサージ師なんかより教師のほうが向いてるんじゃねえか?

「お前の親父さんさ」

 次の問題の文章を読んでいると、坂上が唐突に切り出した。

「たぶんおまえのことが心配で叱ってくれるんだと思うぞ?」
「……いいや、違うね」

 それは俺の親父がどんなやつか知らねえから言える台詞だ。本当に俺のことを心配してくれているなら、おまえは馬鹿だ、アホだ、底辺だ、なんて言葉で罵倒したりしねえだろ?

「あいつは名門大学の出だから、こんなできの悪い息子を持って恥ずかしいとか思ってんだよ。そんで、あまりにもできねえからって俺のこと見下してんだ」
「そうかな?」
「ああ、間違いねえ」

 でもその親父を見返し、黙らせることが今回のテストでできるかもしれねえ。さすがに成績上位に食い込めるなんて自惚れちゃいねえが、きっといい線まで行ける気がする。なんっつっても坂上大先生がついてるからな。

「お前の親父さんはきっといい人なんだろうな」

 俺の回答に目を通す横顔を見ながら、そんなことを呟く。

「少なくとも悪い人じゃない。でもなんで?」
「だっておまえすげえいいやつじゃん。優しいし、気が利くし、おまけに顔もいいし」
「痴漢するような人間でもいいやつって言えるのか?」
「いや、まあそれはあれだけどよ〜」

 痴漢された男にこうして勉強を教えてもらっているなんて、よく考えたら変なシチュエーションだな。まあ、そんなことが気にならねえ程度には打ち溶け合ってるんだけどよ。

「そういえば、おまえって俺の親父に似てるな」
「俺ってそんなに勉強勉強って言ってるか?」
「そうじゃなくて、見た目の話だ」

 俺の親父の中身は最悪だが、顔は結構男前だ。四十も間近っつーのにずいぶんと若く見えるし、たぶん未だにモテてるんじゃねえだろうか?

「和風美男っつーのかな。おまえって男らしい顔してるし、真面目だろ? 俺の親父もそんな感じなんだ」

 たぶん若い頃の親父はいまの坂上みたいな感じで、坂上が歳を重ねればいまの親父みたいになるに違いねえ。中身のほうは似ないでほしいけどな。

「俺が美男ってことはないと思うぞ?」
「はあ? 何言ってんだよ? 女子高に放り込んだら、たぶん九割の女どもがおまえに惚れちまうぜ?」
「う〜ん……そんなふうに思ったことはないな。告白だってされたことない」

 まあ、お前の場合は顔がよすぎて近寄りがたいのかもな。口数が少ないのだって取っ付きにくいと思われてるかもしれねえ。俺も最初の頃はそんなふうに思ってたが、最近は適度な沈黙が心地いいんだと感じ始めている。

「それに美男っていうなら、谷口のほうがよっぽどカッコイイ」
「いやいや、それはねえよ。俺なんかより顔のいいやつなんて腐るほどいやがるぜ?」
「でも、少なくとも俺の知っている男の中じゃ一番いい顔してる」

 坂上の目に茶化すような色はねえ。なんでもねえように至極自然な目で俺を数秒間見つめて、再び回答をチェックする作業に戻る。
 俺はと言うと、素直に照れまくっていた。あまりに恥ずかしくて顔が赤くなってんのが自分でもわかる。本気でそんな台詞言われたことがねえもんだから、返す言葉も見つからず、そのまま黙ってテキストのほうへと意識を向けることにした。

 隣の男が時々熱い視線を送ってきていたことには、最後まで気づくことがなかった。




続く……





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