02. お父さんの場合-2


「う、嘘だろ!? この俺が、こんな……」

 担任の岡部から受け取った紙切れは、いつもなら見た瞬間に肩を落としていたものだ。でも今日は違うぜ? 右端の席次の欄には、思わず自分の目を疑っちまうような数字が記されていた。

「この俺が四十番……だと!?」

 成績表を手にしたまま、俺はその場に立ち尽くしていた。
 ちなみに俺らの学年の人数は百六十人だ。その中の四分の一に入れたことは、三桁が当たり前になっていた俺にとっちゃあ奇跡みたいなもんだ。

「よく頑張ったな、谷口。突然上がっていたから驚いたぞ? 中間がよければもっと上位に組み込めていただろうな」

 いつもは呆れた顔をして成績表を手渡す岡部が珍しく――つーか、入学以来初めて賛美の言葉をくれる。俺は嬉しくて思わず咽びそうになるのを懸命に堪えながら、自分の席に戻った。

「四十番なんてすごいじゃん。急にどうしたんだよ?」

 席の近い国木田が、さも驚いたような顔でやって来た。

「俺さまがちょっと本気を出せばこんなもんさ。でもどうせお前のほうが上なんだろ? 爆発しちまえ」
「うん、まあそうなんだけど……。でも岡部先生が言っていたように、中間がよかったら上位に入れたわけでしょう? そしたら僕だって安心してられないよ」

 秀才の国木田と張り合う、か。いままで住む世界が違うと思ってまったく考えたことがなかったが、もっと頑張ればそれも夢じゃねえのかもしれねえ。

「よおキョン、お前はどうだった?」

 いつも赤点ぎりぎりをともに飛行していた親友は、ちょうど成績表をもらって席に戻るところだった。

「いつもどおりさ。今回はお前にえらい差をつけられてしまったな。いきなりどうしたんだ? まさか別の誰かと人格が入れ替わったとか、同じ週を15498回繰り返したとかじゃないよな?」
「失礼なやつだな。俺だって頑張りゃどうにかなるんだよ」
「ほう。じゃあ、勉強のコツとかあればぜひ教えてほしいものだな」
「俺の知り合いに教えるのがめちゃくちゃ上手いやつがいてよ〜。まあ、正直に言えばそいつのおかげだな」

 感謝してるぜ、坂上。お前の協力がなければ、こんないい結果を出すことはできなかっただろう。あとでちゃんと礼のメールを送っとかなきゃな。

「そんないい先生は身内にいるなら俺にもぜひ紹介してくれ」
「あ、僕も僕も」
「駄目だ。あいつは俺専属だからな」



 家に帰ることをこんなに楽しみに思ったのは、いったい何年ぶりのことだろうか?

 ついにこのときが来ちまったぜ。あのうるせえ親父に成績表を叩きつけ、腕を組んで見下ろせる日が。
 キョンたちとテスト明け祝いに遊んでいたからもうすっかり夕暮れだ。この時間なら親父も仕事を終えて帰っているだろう。
あいつは俺の成績表を見てなんって言うだろうか? 劇的な向上に、感涙に咽んだりするだろうか? ――いや、そりゃねえな。愛想のねえ親父のことだから薄い反応しかしねえに決まってる。だが、それでいいんだ。やればできるってとこを見せ付ければ今後はしつこく勉強しろと言われることもねえだろうし。

「たっだいま〜」

 馬鹿みてえに明るい帰宅の挨拶に返事はねえ。リビングのドアを開けると予想どおり、いつもと変わらず難しそうな本を手にした親父がいて、切れ長の瞳と目が合った。思わずにやけてしまいそうになる顔を引き締めて、鞄から成績表を取り出した。

「ほい」
「……お前から見せるなんてどういう風の吹き回しだ?」

 低くて威圧的にも聞こえる声がそう訊ねてくる。そりゃそうだろ。いままで一度だって俺から成績表を見せたことなんてねえんだから。
 親父の鋭い目が成績表の中を検分し始めた。その間、表情は一ミリたりとも変化しねえ。予想はしていた反応とはいえ、やっぱなんもねえのは少しばかり寂しい。

「俺、今回はすげえ頑張ったんだ。順位だってすげえ上がってるだろ?」
「……カンニングでもしたのか?」

 だが親父は俺のほしい言葉をくれはしなかった。氷みてえに冷たい一言が、俺の心にグサッと突き刺さる。

「……そんなのって、ねえよ」

 坂上の協力を得ながら必死に机に喰らいついた努力が、成績表をもらったときに感じた喜びが、一瞬にして崩れ去っていく。あんなに頑張った俺はなんだったんだ? なんのために苦手な勉強をしたんだ?

「どうしてそんなことしか言えねえんだよ! 俺は、こんなに……」

 それ以上何を言ったところで、親父が俺の気持ちを理解してくれることはねえと悟った俺は、やつの手から成績表を引ったくり、静かなリビングをドタ足であとにした。
 自分の部屋に入った途端、持っていた鞄を壁に向かって投げつけた。ついでに自分の身体もベッドに投げ出して、ひんやりとした枕に顔を埋める。

「……そうだ。坂上にメールしとかねえと」

 結果はこんなことになっちまったとは言え、成績が上がったことには変わりねえ。礼のメールを送っておこうと、投げ出した鞄から携帯を取り出す。そんで文字を打ち込もうとしたわけだが、手が震えて上手く打てなかった。
 次の瞬間には視界がぼやけて、携帯の画面も自分の手も見えなくなっていた。――涙だ。胸の中に渦巻くいろんな感情が透明な雫になって、ボロボロと零れ落ちる。

「親父の……馬鹿野郎っ」

 親父を見返すためだけに頑張ったっつーのに、当の本人にあんなふうに突き放されて、悔しかった。それと同時に、すげえ悲しかった。俺がどんだけ努力しようが、親父が俺を認めてくれることはねえんだろうか? 俺はいらねえ子なのか? それなら俺はこの先どうすればいいんだ?
 一度流れ出した涙はなかなか止まらねえ。まるで過去の辛い思い出全部を吐き出すかのように次々と零れ、枕があっという間にびしょ濡れになっちまった。

 ――ノックの音がしたのは、心が凍り始めたときだった。

 親父が俺の部屋に来る用事なんてねえから、きっと母さんが帰って来たんだろう。着替えを持って上がって来てくれたってとこか?

「……さっきはすまなかった」

 だが、俺の耳に届いたのは母さんの高い声じゃなかった。

「いきなりあんなに成績が上がっていたものだから、驚いてつい心にもないことを口にしてしまった。悪かったと思っている」

 親父の声だ。いつも威圧的で心が通ってねえような声をしていた親父が、ひどく申し訳なさそうな声で謝罪の言葉を口にしている。本来なら一泡吹かすことができたと喜ぶとこだが、俺はそんときその台詞を聞いて、なぜだが更に泣いちまった。

「……泣いているのか?」

 鼻をすする音が親父の耳に聞こえちまったらしい。いたわるような声がそう訊ねてくる。何か言葉を返さねえと……そう思うのに喉から湧き上がる嗚咽のせいで、返事をすることは叶わなかった。

「入るぞ」

 そしてついにドアが開かれた。反射的に顔を上げると、切れ長の瞳と目が合う。その瞬間、男臭いが整った顔立ちは驚愕に歪んだ。
 親父はまるで転んだ幼い我が子に駆け寄るかのような慌てた様子で俺に歩み寄ってくる。そんでベッドに腰を下ろすと、情けねえ声を出しながら泣きじゃくる俺を抱きしめた。

「泣くほど辛かったんだな。本当に悪かった」

 なんてあったけえんだろう。触れた部分から親父の体温が伝わってきて、俺の全身に浸透してくる。凍りかけた心がその温もりで溶け始めた。
 そんとき俺は初めて気がついた。俺はこの人の持っている温もりと与えてほしかったんだって。いつの日からか俺に向けられることがなくなった優しい部分を、もう一度向けてほしかったんだ。

「ううっ……親父っ」

 俺は親父のたくましい身体にすがりつく。すると背中に回された手が優しく上下に動き始めた。
 涙はまだまだ止まりそうにねえ。でもたぶん、いま流れているのは悔し涙とか悲しい涙じゃなくて、安堵の涙とか嬉し涙に違いねえ。




続く……





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