02. お父さんの場合-4


「本当に家まで送らなくて大丈夫か?」

 坂上はあんま感情を顔に出さねえ男だが、こんときはひどく心配そうな顔をして訊ねてきた。

「いまはちょっと一人で気持ちの整理してーんだ。だからここでいい。――お好み焼き奢れなくてわりぃな」

 勉強を教えてもらった礼に、大阪一美味しいと評判のお好み焼きを奢る――その予定は急遽中止になった。つーか、自分の母親の浮気現場を目撃しといて冷静に予定を消化できるようなやつがいたら、そいつはいろいろ終わってるだろう。

「謝ることはない。俺がお前の立場なら、やっぱり悠長に食事なんかしてられないと思う」

 フォローの言葉を入れてくれた坂上は、キョロキョロと辺りを見回す。たぶん人がいねえか確認していたんだろう。前後左右に視線を走らせると、俺の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫でてくれた。

「家に着いたらメールして。心配だから」
「おう、わかった」

 そこで坂上とは別れ、家までの道のりを一人で歩き始める。

 自分の母親の浮気を目撃するなんて昼ドラみてえなことがまさか現実に、しかも自分の身に起こるなんて思ってもみなかったぜ。
 俺の母親がいい母親かっつーと、正直微妙なところだったりする。身の回りの世話はちゃんとしてくれていたけど、俺のことにはあまり関心がないみてえだった。学校のこととか友達のこととか、そういうことを訊かれた記憶なんてほとんどねえ。かと言って会話がなかったっつーわけじゃなく、少なくとも親父よりは遥かに多く会話していた。
 決して嫌いだなんて思ったことはねえが、好きだとも思ったことねえ――そんな母親でも浮気しているっつーのはすげえショックだった。

「クソビッチが……」

 そんで次に湧いてきたのは、沸々と煮えたぎるような怒りだった。息子である俺を裏切ったことに対してももちろん怒っているし、それ以上にあの親父のことを裏切ったのがすげえ赦せなかった。
 真面目な親父のことだから、浮気なんて考えたこともねえだろうし、たぶん風俗で遊んだこともねえだろう。いつも俺たちのために働いて、俺たちを支えてくれて、そんなふうにまっすぐに生きてきたんだと思う。そんな親父をあの女は裏切りやがって――絶対に赦さねえ。
 つーか、あの親父のどこが不満だって言うんだ? 確かに歳は食ってるかもしれねえけど、それでも顔はいいし、身体もいいし、収入だってそこらの男よりはあるほうだぜ? もしかしてセックスのテクニックが残念とか? いや、でもあのでけえチンコは女なら誰でも喜びそうだ。

 母さんの浮気のことは親父には言うべきじゃねえだろう。長年連れ添ってきた自分の女房だ。俺以上にショックを受けるに違いねえ。それに親父の悲しむ顔なんか見たくねえしな。さっき見たことは心ん中にしまっておこう。そんで親父のいねえところであの女にお灸を据えてやる。

「ただいま……」

 まだ日が高い時間帯だが、土曜日だから親父は仕事が休みで家にいる。リビングに入ると親父はいつもどおり読書に励んでいて、俺に気づくと少し驚いたような顔をした。

「お帰り。えらく帰りが早いな。大阪まで行くと言っていたから、帰りは夕方になると思っていたんだが」
「ああ、うん……」

 何も知らねえような顔で、何も知らねえような声で、親父はそう訊ねてくる。そんな親父を見て俺は――俺の心は一瞬にして壊れた。
 蓋をしていたはずの母さんに対する怒りとショックが、わずかな隙間から染み出して、全身に回ってくる。やがてそれは涙になって、まるでダムが決壊したみてえにボロボロと溢れ出した。

「おい、どうしたんだ!?」

 視界が涙で滲んで、そのとき親父がどんな顔をしていたのかはわからねえ。ただ声はひどく慌てていて、いきなり泣き出した俺に駆け寄ってくる。

「親父っ……」

 俺は思わず親父の身体に抱きついた。

「友達と喧嘩でもしたのか?」
「ちげえよ。親父が……あいつにっ」

 親父に告げるべきじゃねえって思ってるのに、激しく湧き上がった情動があのことを言わせようとしている。だが胸を突いて溢れ出した嗚咽が、それを言葉にすることを阻んだ。

「俺がどうした? あいつって誰だ?」

 ゴツイ手が俺の頭を撫でながら、耳元で優しく訊ねてくる。
 言葉をなかなか紡げねえまま、ただ俺の泣き声だけが静かなリビングに響いていた。それを自分で聞きながら、気づかされる。ああ、母さんのことが憎いとかショックだったとかだけじゃなくて、俺は悔しかったんだって。この親父が裏切られたっつーことに、すげえ腹立ってんだって。はは、どんだけ親父のこと好きなんだよ、俺。

「あいつと……あの女と離婚してくれ」

 ようやく嗚咽が落ち着き始めたところで俺はなんとか言葉を搾り出した。その内容は感情が剥き出しになっていて、落ち着きなんて欠片もなかったが。

「あの女って、母さんのことか?」

 親父の顔は驚愕に歪んでいた。そりゃそうだろうよ。いきなり人生のパートナーと離婚しろなんて言われたら、とても正気の沙汰とは思えねえ。

「俺、見ちまったんだ。あいつが若い男と腕を組んで歩いてるところ。あいつは親父を裏切ったんだ」

 これを聞いた親父はさっきよりも驚くだろうな。つーか、やっぱショックだと思う。自分が真面目に働いている間に浮気なんてされてたら堪ったもんじゃねえ。

「……それなら俺も見たことがある」

 だが、次に驚かされたのは俺のほうだった。

「見たことがあるって、どういうことだよ……?」
「そのままの意味だ。俺もあいつが若い男と腕を組んで歩いているのを――浮気の現場を見たことがある」

 親父は明日の天気でも話しているかのように、軽い感じで口にした。

「で、それを見て親父はどうしたんだ? キレたのか?」
「何もしなかったさ」
「何もしなかったって……甲斐性なさすぎだろ!」

 親父の中の優しさが怒ることをさせなかったのか? それとも浮気されても平気なくらい、母さんに対する気持ちが薄らいでたのか?

「ある程度覚悟していたことだった」

 そう言った親父の顔には、少しばかり寂しそうな色が浮かんでいた。

「あいつは俺と出会う前からいろんな男を取っ替え引っ替えして遊んでいた。二股とか三股なんて日常茶飯事だったし、たぶんこいつは結婚しても見えないところで遊ぶだろうってわかっていた。それをわかった上で俺はあいつを選んだ。わかった上で選んだ以上、浮気されたって文句は言えない」
「それはちげえだろ!」
「違わない。自分で選んだからには、自分に責任があるんだ。もちろん浮気されていい気はしないが、それを咎めることは、自分自身を否定するみたいでできなかった」
「なんで……なんであんな最低な女を選んだんだよ?」
「どうしようもなく好きだったんだ。これ以上好きになることはないってくらいに惚れ込んでしまった」

 親父はすげえ優しい目をしていた。だがその先にいる相手が親父のことを裏切っているのかと思うと、すげえいたたまれなくなる。

「見る目なさすぎだろ。あんなのさっさと振って、もっといい女見つければよかったのに」
「さっきも言っただろう? 覚悟はしていたって。それにお前がいた」

 優しい目は、今度はここにいない誰かじゃなくてまっすぐに俺を見つめてくる。

「俺たちが離婚して一番辛いのはお前だろう? それに、俺たちの離婚が原因でお前が虐められでもしたら、と考えるとやっぱり別れることはできなかった。俺はこう見えてもお前が可愛くて仕方ないんだ。お前が苦しむような道を選択することはできない」
「俺のことなんか……どうだっていいだろ?」
「いいわけないだろ! お前は俺の大事な息子なんだから」

 一方的に俺が縋っているだけだったのが、今度は親父から熱い抱擁が返ってくる。俺を抱きしめた腕には思いのほか力が入っていた。

「俺にとってお前は、あいつ以上に大切な存在だ。お前が傷つくことだけは耐えられない」
「……それならなおのことあの女と別れてくれ。普通の顔してあいつと生活していくなんて、とてもできるとは思えねえ。それに俺はもう高校生だから、親の離婚で虐められるようなこともねえ。だから別れてくれよ」
「それは……」

 母さんと生活を続けていくことは、俺にとって苦しいことに他ならねえ。だからそう頼んだし、親父も大事に思っている息子の頼みなら了承してくれるだろうと思っていた。だが、予想とは違って親父は言葉を詰まらせた。
 その理由はなんとなくわかる。さっきも言っていたように、親父は母さんのことがどうしようもなく好きなんだ。好きなやつと別れることがすげえ辛いんだってことくらい俺にもわかる。
 好きな女と一緒にいたいっつー気持ちと、その女と別れろっつー息子の願い――その二つに挟まれて、親父はめちゃくちゃ困っているようだった。けどあの女に譲るつもりなんてまったくないぜ?

「俺が母さんの代わりになる」

 その一言に、親父ははっと顔を上げた。

「母さんの代わりに家事だってするし、夜の相手だってするぜ? それに、俺なら母さんが親父に向けてくれなかった気持ちを向けることができる」
「何を言ってるんだ。お前は俺の……息子だろう」

 親父は驚きと困惑の入り混じったような表情で、俺の言葉を否定した。

「そんなにあいつがいいのかよ? なら俺がこの家から出て行く」

 もちろん行く当てなんかねえけどな。親父に俺を選ばせるためには、そういう卑怯な台詞を使うしかねえ。
案の定、親父は迷っているようだ。妻と息子、どちらか一つを選べと言われて即決できるほうが怖いけどな。

「……わかった。あいつとは離婚する」

 やがて苦い表情を押し殺すように目を閉じた親父は、静かにそう告げた。

「その代わり約束しろ。ちゃんと俺について来るって」
「当たり前だろ」

 もしもいま、母さんのほうを選ぶって言われていたら俺はどうしたらよかったんだろうな? 親父なら俺を選んでくれるって信じてたから、先のことなんてまったく考えてなかった。

「親父は平気か?」

 自分を選ばせておきながらそんなことを訊いたのは、親父の浮かべた笑顔にどこか陰りを感じたからだ。

「俺は平気だ。それがお前のためだと思うし、自分のためでもあると思う。お前が心配するようなことはない」
「ホントか?」
「本当だ」

 親父は最後に俺の頭を撫でて、少し疲れているようだったけど、陰りを消して笑った。

 ――けど親父は、全然平気なんかじゃなかった。




続く……





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