03. 担任の先生の場合-1


 目の前を横切ったのは、男なら誰もが見惚れちまうような美女だった。

 腰の辺りまで伸びた黒髪に、二重で大きな瞳。眉毛は少し太めだが、それが逆に清楚な雰囲気を醸し出している。出るべきところは出て、引っ込むべきところはちゃんと引っ込んでいるボディーラインは赤いドレスに包まれている。ランク付けするならAAランク+ってとこか? あれは性格までいいに違いねえ。
 だが、と俺は首を傾げる。いまの美女、どっかで見たような覚えがあるんだよな。遠い昔の記憶だとは思うが、確かに引っかかりを感じている。

「どうした?」

 自分の記憶の引き出しを一つ一つ探っていた俺にかけられたのは、ぞっとするような低い声だった。振り返ると、俺よりも遥かに背の高い男が精悍な顔立ちに優しげな微笑みを浮かべている。

「あ〜、なんか知り合いっぽいのがいてよ〜」
「ふ〜ん。あ、ほら、飲み物」
「サンキュー」

 男――坂上の差し出した紙コップを受け取り、俺は無遠慮に口を付ける。

 大音量の音楽が流れる空間に、年齢層のばらばらな男女が百人くらい存在している。これはゲイやレズビアンの人間を対象にした“ナイト”と呼ばれるクラブイベントで、俺は興味本位で来ていた。坂上はその付き添いみたいなもんだ。
 クラブイベントっつーからてっきり広い会場でみんなが踊ってるもんだと思ってたんだが、周りの人間は普通に雑談したりドリンクを飲んだりと、案外落ち着いた雰囲気に包まれていた。それに意表を突かれはしたものの、逆に居心地がよくて、ちょっと覗くだけのつもりがすっかり長居しちまっている。

「知り合いなら、顔見られるとやばいんじゃないのか?」
「まあな。でもホントに知り合いかどうかわかんなかった。ちょいとそいつの顔確認してきてもいいか?」
「うん。ここで待ってる」

 わりいな、と手を合わせて俺は喧騒の中に入っていく。
 たぶんこのあと坂上はいろんな男に絡まれるんだろうな。さっきだって俺がちょっとトイレに行っている隙に三十くらいのおっさんに絡まれてたし、その前も何人かに声をかけられたらしい。まあ、なんせあの男前だ。需要は腐るほどあるだろうよ。
 いい男に声をかけられたら、あいつはいまの俺との関係みたいに、そいつとも定期的に会ってヤったりするんだろうか? それを考えると激しく嫉妬する自分がいて、坂上に対する好意に気づかされる。

 そんなことを考えながら人ごみを抜けると、カウンター席に目的の人物が腰かけているのが見えた。俺は赤いドレスの美女の顔がよく見える位置に移動し、ドリンクに口を付ける彼女をじっと眺める。
 やっぱり綺麗だな。男子校に放り込んだら絶対無事じゃ済まねえだろうな。それかあまりの綺麗さに誰も近づくことさえできねえかもしれねえ。
 一つ一つのパーツを検分していくが、やっぱこの美女が誰なのか思い出せねえ。こんな美女をこの俺が忘れるはずねえんだけどな〜……。よし、もうちょい近くで見てみるか。
 そう思った瞬間、赤いドレスの美女の瞳がこっちを向いた。やべえ、あんまじろじろ見てると怪訝に思われちまうぜ。そう思うのになぜだが俺の視線は美女から離れなくて、まるで時が止まったかと錯覚しちまいそうになるくらい、互いに見つめ合っていた。
 やがて美女は整った顔立ちに玲瓏な笑みを浮かべ、呆然としている俺に歩み寄ってくる。

「こんばんは。お久しぶりね」

 明朗な声がそう挨拶を口にした。久しぶりっつーことは、やっぱこの美女は俺の知り合いで間違いないらしい。しかし俺の中の人物録にこの顔と一致する人物がなかなか出てこねえ。

「もしかして、私のことわからない?」
「まあ……すいません」

 素直にそれを認めると、美女は拗ねたように口を尖らせた。

「朝倉涼子よ。名前を聞いてもわからないなら、かなり寂しいけど」

 その涼しげな名前が彼女の口から飛び出した瞬間、俺の心の中で歯車がかみ合うような音がした。

 朝倉涼子――一年と少し前、何の知らせもなく突如転校していったクラスメイトだ。容姿端麗な上に性格までいいから北高の男子から人気が高く、世話焼きなところから女子にも好かれていた学級委員長だった。
 よく見れば確かに目の前の美女は朝倉涼子の顔をしている。化粧するとずいぶんと大人びて見えるのな。

「カナダに行ったんじゃなかったのかよ!?」
「そうよ。いまはちょっとした用事でこっちに帰ってきてるの。ここに来たのは単なる暇つぶしってところ」
「……ここに来たっつーことは、朝倉はレズ? バイ?」
「私は女の子専門よ。そういうあなたはゲイなのかしら?」
「いや、バイだと思う。たぶん」
「そう。――ねえ、ちょっとあっちに座って話しましょうよ。あなたの話、聞きたいわ」

 そうして朝倉に導かれるがままにカウンター席に腰かけた。最初は互いの近況報告をして、朝倉は徐々に突っ込んだ話題へと切り替えてくる。

「それにしても、まさか谷口くんが男の子に興味を持っているだなんて思わなかったわ。だってあなた、暇さえあればぽけーっと女の子のほう見てたじゃない?」
「朝倉がいた頃はまだ女にしか興味なかったんだけどな〜。最近いろいろあってよ〜」

 俺は電車で痴漢されたときのことを朝倉に話した。

「へえ。変わった始まりだったのね。その痴漢男さんとはどうなったの?」
「今日一緒に来てるぜ」
「ああ、もしかしてさっきあなたの隣にいた背の高い人のことかしら? 付き合ってるの?」
「いや、付き合ってはねえ……けど」
「けど、何?」

 その先は俺の口から言うつもりはねえ。けど朝倉はまるで心ん中まで覗き込むかのように俺の目をじっと見つめてくる。

「わかったわ。あなた、その痴漢男さんのこと好きなのね」
「……エスパーかよ、お前は」

 確かに俺は坂上のことを好いているし、それが恋愛感情だってことも自覚していた。

「向こうは脈なしなの?」
「少なくとも嫌われてはねえと思う。エロいこともしてるし」
「あら、なら十分脈ありじゃない。そんな苦い顔することなんてないのに。告白してみたら?」
「……なんっつーか、よくわかんねえんだ。あいつのこと好きだけど、俺はいままで男となんか付き合ったことねえから、どんなふうに付き合えばいいのかわからねえ。ビジョンが全然浮かんでこねえんだよな」

 たとえば相手が女だったら、手を繋いで歩いたりだとか、デートしたりだとか、そういうわかりやすいビジョンが浮かんでくる。でも俺が好きなのは男で、しかもあの坂上だ。
 手を繋いで歩く? ないな。そもそも男同士だから人目あるところじゃ絶対無理だし、仮に人目がなくてもなんか気が進まねえ。デート? まあ、ちょっと一緒に買い物行くくらいしてるけど、やっぱ仲のいい友達と遊びに行く感覚と変わらねえ気がする。
 じゃあいったい男同士で付き合うってなんなんだ? ベッドの上でいちゃついてセックスするなんて、単なるセフレじゃねえのか?

「ビジョンなんて必要ないわ」

 朝倉の落ち着いた声が俺の台詞を否定した。

「大事なのは気持ちよ。別に手なんて繋がなくてもいい。甘い台詞なんて必要ない。お互いの気持ちが通じ合ってさえいればそれでいいのよ。それに、付き合っているうちにあれしたい、これしたいっていうビジョンが浮かんでくると思うわ」
「……そんなもんかな〜」
「そんなものよ。――でも羨ましいな。好きな人とえっちなことしてるなんて」

 深く溜息をつくとともに、朝倉の目に少しだけ寂しげな色が浮かんだ。

「朝倉はそっち方面どうなんだよ? 好きなやつとかいるのか?」
「いるけど、望み薄って感じね。私の気持ちを伝えたところで、きっとエラーが出たとか言われちゃうわ」
「ひでえな、それ。どんなやつだよ?」
「感情が希薄な子よ。いつも無表情で無口で、どんなに周りが楽しそうにしてても、その子はいつも黙って本を読んでる。まるでロボットみたいな子だわ」
「そんなののどこがいいんだ?」
「その子が稀に見せる人間っぽいところに私は惚れちゃった」

 まるでそこにその女がいるかのように、朝倉は手に包んだコップを眺めて、笑みを零した。

「しっかし、朝倉でも落とせねえ人間っているんだな。美人だし、その上優しくて頼りがいがある。俺なら好きって言われたら一発KOなんだけどな〜」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもそれはあくまで表面上の私であって、本当は全然違う人格かもよ? たとえば放課後の教室に呼び出して、告白するのかと思えばナイフでいきなり刺しかかってきたり、冬の夜道に突っ立ってたら後ろからいきなりナイフで刺しかかってきたりするかもしれないじゃない?」
「えらい具体的だな! つーかどんだけナイフ好きなんだよ、お前!」

 冗談よ、と朝倉は舌を出す。いや、別に誰もお前がそんなことするとは思ってねえよ。

「私ね、カナダに行く前日にその子と大喧嘩しちゃったの。結局仲直りできないまま別れて、冬に久々に再会したときもまた喧嘩しちゃって……。未だに仲直りできてない。で、今日このあと会いに行く予定なんだけど、今度はちゃんと謝って、仲直りしたいな……」
「朝倉でも喧嘩するんだな」
「するわよ。私、こう見えて結構意地っ張りだし、思い込んだら一途だもの」
「全然そういうイメージねえよ。でもまあ、上手く仲直りできるといいな」
「そうね。そういうあなたこそ、痴漢男さんと上手くいくといいわね。――それと、あなたそろそろその痴漢男さんのところに戻ったほうがいいわよ、あの人さっきからすごい目つきで私のこと睨んでるんだもん」

 朝倉の視線を辿ってみると、台詞のとおり人ごみの向こうに険しい顔でこちらを見ている坂上の姿があった。やべえ、さすがに待たせすぎたかもしれねえ。

「わりい朝倉、俺戻るわ。またどっかで出会ったら話そうぜ」
「あ、谷口くん、ちょっと待って!」

 急いで坂上の元に戻ろうとした俺を、朝倉が呼び止める。

「最後におもしろいこと教えてあげる。まあ、あなたにとっておもしろいかどうかは微妙なところだけど。少なくとも知っておいて損はないわ」

 元学級委員長の整った顔立ちには、新しい悪戯を思いついた子どものような笑みが貼り付いていた。

「さっきここで、私とあなたの共通の知り合いを見たわ」
「え、誰だよそれ!?」
「ほら、あそこ」

 綺麗にネイルアートの施された爪が、出入り口の近くを指し示した。そこには壁にもたれかかった男が一人いて、ぼんやりと喧騒を眺めている。髪は短く爽やかな感じで、顔は男らしく端整だ。歳は二十代後半ってところかな。結構俺の好みで、このフロアにいる男の中じゃ坂上の次くらいにイケるぜ。
 でもそれのどこがおもしろいってんだ――と朝倉に訊きかけたとき、ふとその男の顔に引っかかりを覚えた。その感覚はちょうど、今日最初に朝倉を見かけたときに感じたのとよく似ている。だが、そいつの名前を思い出すのに朝倉ほどの時間はかからなかった。だってそいつは毎日のように学校で顔を合わせているからな。
 男が誰なのか理解した瞬間、俺は驚きのあまり悲鳴を上げそうになった。

 そこにいたのは、担任の岡部だった。




続く





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