04. 親友の場合-3


 幽体離脱っつーか、すでに幽霊みてえな状態になっている俺だが、全力疾走すればちゃんと体力は減っていくらしい。河原から走りっぱなしだったキョンがようやく立ち止まった頃には、足はいてえし息は切れるし、とにかくへとへとな状態だった。
 キョンの視線が見上げる先には、ちょっとした金持ち以上しか住めそうにねえマンションが聳え立っている。金持ちっつったらやっぱ古泉か? いや、あいつの素性なんぞほとんどと言っていいくらい知らねえけど、雰囲気的にはどっかの御曹司って言われても疑わねえ。

 だが、俺の予想は外れることになる。
 708号室のドアの向こうから姿を現したのは、ショートヘアの少女――長門有希だった。

「急に押しかけてすまん」
「いい。入って」

 どうもキョンは初めて長門の部屋に上がるって雰囲気じゃねえな。一階で呼び出すときも部屋番号を打ち込むのに何の迷いもなかったし、過去に何度か来ているのかもしれねえ。くそ、羨ましいぜ。
 リビングらしき部屋は殺風景で、真ん中にテーブルがちょこんと置かれている他に家具らしい家具はねえ。一家に一台あって当たり前のテレビすらなく、生活感が感じられなかった。
 テーブルの前に座ったキョンの隣にどっかと腰を下ろすと、長門が茶を持ってくる。もちろんキョンの分だけだ。
 走ってきたから喉が渇いていたんだろう。キョンは長門の入れたお茶を一息に煽り、おかわりを求めてそれもまた一気に飲み干した。それから一息ついたあと、キョンはようやく口を開いた。

「長門、おまえに一生のお願いがある」

 ……まさか付き合って下さいとか言い出すつもりじゃねえだろうな? 俺が死んだ直後にそりゃないぜ。

「谷口を……生き返らせてほしい」

 実体化して殴り込みに行きてえ気分になりかけた俺の心に、予想外の台詞が冷や水を浴びせる。
 おいおい、確かに長門は神秘的で不思議な空気をまとっているかもしれねえけど、死人を蘇らせるなんていう、宇宙人もびっくりなパワーなんぞ持ってるわけねえだろう? おまえもあの涼宮の毒気に当てられてついにおかしくなっちまったか?
 だが、キョンの目は真剣そのもので、対する長門もそれを嘲笑ったりしねえ。もちろん二人とも心からあっち側の人間になっちまった可能性も否定できねえが、この深刻な雰囲気は厨二病のノリとは明らかに違っていた。

「……できないことはない」

 やがて長門が静かに言葉を返す。

「しかし、周辺環境への影響は計り知れない。今回はすでに起こってしまった出来事を時間跳躍に頼らず完全な形で改変することになる。つまり、ごく一部にせよ世界そのものを改変するということ。リスクは限りない」
「なんだっていいんだ!」

 抑揚を欠いた長門の声に対し、キョンは荒い声を吐き出した。

「俺は谷口を……親友を助けたい。あいつはあそこで死んでいいはずの命じゃなかったはずだ。それを俺が止められなかったばかりに……」

 何くせーこと言ってんだよ、キョン。俺は事故に遭ったこと、おまえのせいだなんてミジンコほども思っちゃいないぜ? あれは完全に俺の不注意だったと思うし、もっと悪いのはあの突っ込んできたワゴン車の運転手だ。おまえが悪びれる必要なんてねえ。
 それよりも、俺はおまえがちゃんと俺のこと親友だと思ってくれていたことに感激したぜ? だって、普段のキョンは俺の扱いがかなり雑じゃねえか。やっぱおまえは涼宮並みのツンデレだな。

「もっと優しくしてやればよかった。もっと話しておけばよかった。そう言えば一緒に海に行ったことってなかったな。あいつのことだからたぶん、水着の女を見てはAランクだのBランクだのと勝手に評価するんだろうな。よし、今年の夏休みは――」

 そこでキョン台詞が急に途絶える。テーブルを見つめる瞳からはいまにも涙が溢れ出しそうで、それを堪えるようにきゅっと目を閉じた。

「頼む、長門。あの事故をなかったことにしてくれ。谷口を助けてくれ」
「……私一人の力では彼を助けることはできない。あなたの協力が必要。しかし、あなたの協力があっても絶対に助けられるとは限らない。それに――失敗すればあなたの命が失われる」
「俺の命なんてどうだっていい。あいつさえ助かればそれでいいんだ」
「了解した。いますぐにでも実行に移すことができる。準備は?」
「いつでもいい」
「そう」

 いつになくよく喋る長門はキョンの返事に一つ頷くと、液体ヘリウムみてえな目をこちらに向ける。視線が交わった瞬間、目に見えるものすべてがぐにゃりと歪んだ。強烈なGを身体に感じながら、俺の意識はゆっくりと閉ざしていった。


 ◆◆◆


 身体中が炎に包まれてるんじゃねえかと錯覚しちまうような暑さだった。
 お気に入りのTシャツは汗に濡れて身体にへばりついている。その感触を不快に思いながらも、俺はチャリを漕ぐ足を止めなかった。

「よし、一番乗りだぜ!」

 ようやく長く続いた上り坂の頂上に辿り着き、そこで俺はチャリを下りた。
 きつい坂だったから足が嗤ってりゃ。息もすげえ上がってるし、こんなに激しい運動をしたのは春のスポーツテストのとき以来だな。
 こっから先は、今度は長い下り坂になっている。そして坂を下り切った先には青い海が広がっている。目的地はもうすぐらしい。

「――おまえっ……無駄に元気だな」

 息も絶え絶えに坂を上ってきたのはキョンだ。いまにも死にそうな顔をしながら、チャリのスタンドを下ろして自分は道路の上にへたり込む。

「本当だよ。こういうときだけすごい力を発揮するんだから」

 キョンの後ろをわずかに遅れて上がってきたのは国木田だ。こいつもキョンと同じように道路にへたり込むと、リュックの中からドリンクを取り出した。

「男はな〜、勉強だけできたって仕方ねえんだよ。大事なのは体力だ!」
「おまえ勉強できない上に、持久走だって散々だったじゃねえか」
「うるせえ。少なくともおまえら二人よりは体力あるぜ」

 つってもまあ、わずかな差だけどな。
 口を付けたドリンクは生温くなっていたが、それでも喉と身体は潤される。海水浴場に着くまでもう休憩することはねえだろうと、俺はそれを一気に飲み干した。

「見ろよ。目的地がもうそこに見えてるぜ?」
「本当だー。早く海に入って汗を流したいねー」
「まったくだ。そもそもバスを使えばこんな汗に塗れることもなく、平和に辿り着けてたのにな。誰だ、チャリで行こうなんて言い出したアホは」
「うるせえ。青春ってのは汗に塗れてなんぼだろうが」

 キョンと国木田はそろって呆れたように溜息をついた。

「それにしても谷口、どうして急に海に行こうなんて言い出したんだ? プールじゃ駄目だったのか?」
「プールならいままで何回も行ったろ? それに対して海は一度も行ったことないんだぜ?」
「そうだっけか? ……そう言われてみるとおまえらと行った記憶ないな」
「だろ? 記念すべき初海なんだし、へたれてねえで進むぞ」

 そうして俺は休憩もまちまちに、再びチャリに跨った。三人での海があんまりにも楽しみすぎて、一刻も早く着きてえって気持ちが急いている。
 陽射しに煽られて熱くなっているアスファルトを蹴り、チャリは下り坂に繰り出した。さっきまでの苦労がまるで嘘みてえに楽々と道を走っていく。

「おい、谷口!」

 だが、風を切る爽快感はキョンの怒声によって打ち壊された。あんまりにも危機迫るような声だったから、思わずチャリを止めて後ろを振り返ろうとする。
 その瞬間、いきなりチャリの前輪ごと身体が前のめった。慌てて前を向けば、海まで緩やかな下り坂が続いていると思っていた道には、突如ちびっちまいそうなくらいの深い谷が出現している。

 死ぬのか、俺!?

 この高さじゃ間違いなく助からねえ。何か掴むもんはねえかと足掻いてみても、手は虚しく空気を切るだけで、結局どうすることもできずに落ちていくしかなかった。
 なんだよ、キョンたちと海で遊ぶのすげえ楽しみにしていたのに。それだけじゃねえ。始まったばかりの夏休みを満喫しようといろいろと計画を立てていたのに、全部パーになっちまうじゃねえか。

 死にたくねえ。死にたくねえ。死にたくねえ。死にたくねえ。死にたくねえ。死にたくねえ。
 でもたぶん、どうせ無理だけどな。

 そう人生を諦めた瞬間、落下の勢いが急にぴたりと止まった。
 何かが――いや、誰かが俺の腕を掴んだんだ。
 さっきまで自分が立っていた道路を見上げると、キョンが必死の形相で俺を引っ張り上げようとしている。

「諦めてんじゃ、ねえよ、アホ」

 俺もキョンも体重は同じくらいだから、きっと引っ張り上げるのは相当きついだろう。むしろキョンの身体も徐々に崖に引き寄せられていて、このままじゃ二人とも谷底に落ちちまう。

「馬鹿、離せよキョン! おまえまで死んじまうぞ!」

 死にたくはねえけど、このままキョンを道連れにするくらいなら大人しく一人で死んだほうがマシだ。

「離して堪るかよ! 俺はお前を取り戻すって決めたんだ!」

 取り戻すって何の話だ? 一体俺を何から、どこから、誰から取り戻すっつーんだよ?

「谷口、あのときは何もできなくて悪かった」

 ああ、そっか。いつか俺がワゴン車に撥ねられたときのこと言ってんだな?
 あれ、でも確か俺はあのとき死んだはずだ。医者が俺を助けることができなかったっつったのも覚えてるし、あれが夢だったとはとても思えねえ。
 そっか、じゃあいまいるこの世界が夢ってわけだな。三人で海に行きてえっつー願望が夢を見させているらしい。

「でも、今度は絶対に助ける。おまえを連れ戻して、また馬鹿やりながら友達でいたいんだ」

 だが、夢の中にいるはずなのに、キョンの手の感触だけは鮮明に伝わってくる。俺を助けたいっつー必死な思いも、本気で俺とダチでいてえっつー意思も、まるで現実みてえに俺の心に届いていた。

「俺もおまえと海行きたかったぞ。おまえのことだから、どうせ水着の女を見てはAランクだのBランクだの言い出すんだろうけど、それを聞くのも楽しみの一つなんだ。――おまえアホなようで結構気が利くし、おもしれえから俺は好きだぞ」
「いきなりなんだよ」
「別に。ただ正直な気持ちを口にしただけさ」
「馬鹿野郎……そんなこと言われたら、生きたくなっちまうじゃねえか」

 キョンの優しさが、キョンの思いが、全部全部恋しい。もう一度あの世界に戻ることができるのなら、戻りてえ。

「キョン、俺生きてえ。もっとおまえらと馬鹿やりながら、青春を謳歌してえよ」

 叶わねえ望みだとはわかっている。それでもキョンの俺に対する気持ちを知っておきながら、生きたいと思わずにはいられなかった。

「大丈夫だ。おまえは戻ることができる。俺を信じろ」
「信じるも何も、最初から疑う余地なんてねえよ、バーカ」

 その台詞にキョンが笑った瞬間、キョンのバックに見えていた空が突如光に包まれる。光は見る見るうちに激しさを増し、ついにはキョンの顔も見えなくなってしまう。
 そして目を開けていられねえほどに膨れ上がったあと、俺の意識は身体と一緒に光に飲み込まれちまった。




続く





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