01. お父さん


 お父さんと一緒に外でボール遊びをする。それが幼い頃からのジャンの夢だった。

 物心つく前に両親が離婚し、ジャンは母親に引き取られた。ジャンは優しい母親が大好きだったし、たくさんの愛情を注いでもらっていると、子どもながらに理解していた。けれどやはり、友達たちの“父親のいる家庭”を目にするたび、羨ましいと思うのを抑えられなかった。

「お父さんに会いたい」

 ジャンが十歳になった頃、思いつきにそう言ってみると、母はひどく困ったような顔で首を横に振った。

「駄目よ。すごく遠いところにいるんだもの。それに、会わないほうがあなたのためなの」
「どうして?」
「あの人は……あの人は、ろくでもない人だから」

 ろくでもない、という言葉の意味がよくわからずに首を傾げるが、母はそれを無視して家事の続きに戻ろうとする。

「一回でもいいんだ。会って、話をしてみたい」
「駄目なものは駄目よ。ジャン、これ以上母さんを困らせないで」

 困らせないで、という言葉に、ジャンはそれ以上頼み込むことができなかった。仕方なく自分の部屋に戻り、ベッドに横たわって白い天井を眺める。
 両親が離婚をした理由は、未だにわからない。母は絶対に教えてくれないし、祖母たちも知ってはいるようだったが、やはり教えてはくれなかった。

 父さんは、いったいどんな人なんだろう。

 幼い頃から何度も想像してきた、父親の姿。きっといつも優しい微笑みを浮かべていて、背は高くて、かっこよくて、自分といっぱい遊んでくれるに違いない。
 想像するたび、会いたいという気持ちは大きくなった。だが、情報の出所が身近にない以上、子どものジャンにはその願いを叶える手段がなかった。いっそ探偵にお願いしてみようか? 依頼料は、ジャンのひと月分のお小遣いで足りるだろうか? そんなことを考えているうちに、ジャンは眠りの世界に落ちていくのだった。
 
 そんなジャンに転機が訪れたのは、それから数日後のことだった。

 小学校から帰ってくると、偶然郵便屋さんと鉢合わせし、今日の分の郵便物を手渡しで受け取ることになった。自分宛ての手紙なんてきっとないだろうけれど、なんとなく誰からのものだろうかと、一枚一枚検分していく。
するとそこに見覚えのある差出人を見つけて、ジャンは思わずドキリとする。

“ナイル・ドーク”

 それはジャンの父の名前だった。父に関して唯一知っている情報であり、忘れないようにと紙切れに書いて引出しにしまっておいた文字の羅列。
 父の名前で届いていたのは、何やら大きな封筒だった。中身が気になるところではあるが、それよりもジャンの気を惹いたのは、差出人とともに書かれた住所である。名前以外に初めて得られた、父に関する情報だ。

(あれ? ここ、そんなに遠くないじやん)

 母が口々にすごく遠いところにいると言っていたから、てっきり何百キロも離れたところにいるのかと思っていたが、封筒に書かれた住所はここから電車で一時間ほどの距離にある町だ。
 あの町までの電車賃なら、いまあるジャンの財布の中身で十分足りる。つまり、父に会いに行けるということだ。そう確信した途端、鼓動が高鳴る。幼い頃からの強い願いが、ついに叶うときがきたのだ。
 ジャンはすぐに出かける準備を始めた。幸いにも母はまだ仕事から帰ってきてなかったから、支度は順調に整い、もうあとは家を出るだけとなった。
 しかし、さすがに母に何も知らせずに出ていくのは拙いだろう。心配した母が捜索願なんか出したら大変だ。そう思ってジャンは父の家に行く旨を置手紙に書いて残し、ちょっとした一人旅に出発するのだった。

 電車での移動は何回か経験があるため、特にもたつくこともなく目的の電車に乗ることができた。あとは父のいる町に着くまで、この心地いい揺れに身を任せておけばいいだけだ。
 窓の外の景色を見ながら、ジャンはずっとドキドキしていた。やっと父に会える。自分が生まれたばかりの頃はまだ両親たちは離婚していなかったから、ほんの赤ん坊だった頃の自分を父は知っているはずだ。それがこんなに成長した姿を見て、父はいったいどんな顔をするだろうか?

(早く会いたい……)

 賑やかな街の景色から、青い海の広がる景色へと移り変わり、そして目的地に着く頃には、電車は山の中を走っていた。物心ついた頃から街の喧騒の中で育ったジャンにとっては、とても珍しくておもしろい光景だ。
 電車を降り、一つしかない駅の改札を出ると、田舎の静かな町並みが広がっていた。高いビルもなければ、人や車も少ない。そんな風景を目の当たりにして、ジャンは本当に父のいる町に来たのだと実感する。
 さっそく父の家に向かいたいところだが、住所はわかっていても、そこがどの辺りになるのかは皆目見当がつかない。電柱に貼られた住所表示などを頼りに探すという手もあるが、それよりもそこの交番でおまわりさんに訊いたほうが早そうだ。
 ガラス張りの引き戸を開けると、受付に座っていたおまわりさんがジャンに気づいて立ち上がった。

「どうした坊主、落し物でもしたか?」

 気さくに話しかけてきたおまわりさんは、目つきの鋭い人だった。おまけに口の上と顎に髭を生やしているから、警察なんかよりもヤクザだと言われたほうが納得してしまう。まあ、交番にいてきちんと警察官の制服を着ているということは、おまわりさんで間違いないのだろう。
 知らない土地で初めて見る顔のはずなのに、ジャンはそのおまわりさんの顔に見覚えがあるような気がした。それもずっと昔の話ではなく、つい最近もどこかで目にしたような感覚がある。けれど思い返してみても一致する人物は出てこず、諦めて本題を切り出すことにした。

「人を探してるんです。この住所がどのへんなのか教えてください」

 父の家の住所をメモした紙を渡すと、おまわりさんはどれどれ、と言いながらそれを検分し始める。そしてすぐに、その厳つい顔が驚いたような表情を浮かべた。

「坊主の探してる人ってのは、なんていう名前だ?」
「ナイル・ドークって人。オレの父さんなんです」

 ジャンがそう言うと、おまわりさんは目を見開いて、ジャンの顔をまじまじと見てくる。そんなリアクションをするということは、父の知り合いか何かだろうか? 訊ねようとするが、それより先におまわりさんのほうが口を開く。

「ナイル・ドークは、俺だ」
「え……」

 予想もしていなかった言葉に、今度はジャンが驚かされてしまう。

「お前……ジャンなのか?」
「うん……うん、そうだよ父さん」

 想像していた、いつも優しい笑顔を浮かべる父親とはまったく違う姿――むしろ少し恐そうだと感じる顔をしているけれど、おまわりさんの言葉をジャンは疑ったりしなかった。。なぜなら、毎日目にする鏡の中の自分の顔が、どことなくこのおまわりさんに似ていると気づいたからだ。さっきおまわりさんの顔に見覚えがあると感じた要因は、それだったのだろう。

「父さん……ずっと会いたかったよ」

 幼い頃から、何度父さんがそばにいてくれたら、と思っただろう。友達のお父さんを見て、何度羨ましいと感じただろう。会いたいという強い思いはいつも父親のことを夢に見させ、そのたびに思いは更に強くなった。
 けれどこれはもう、夢じゃない。目の前にいるのは本物の父さんで、これは現実で間違いないのだ。ジャンはなんの迷いもなく、父の大きな身体に縋りついた。

「俺も会いたかったぞ、ジャン。こんなにでかくなりやがって……」

 すると父もジャンの身体を優しく抱きしめながら、髪の毛を梳くように頭を撫でてくれる。
 温かい、とジャンは思った。温かいのと優しいのが父の身体から溢れ出してきて、目の奥が熱くなる。それはすぐに涙となって、ジャンの瞳からポロポロと零れ落ちた。

「父さんっ、父さんっ……」
「ジャン……」

 鼻をすする音が上のほうから聞こえた。どうやら父も泣いているらしい。自分との再会を喜んでくれているのだとわかって、ジャンは安心した。鬱陶しがられたらどうしようかという不安が、少なからず胸の中にあったからだ。
 父さんといろんな話をしたい。ここまで来るのに見たいろんな景色のこと。学校のテストでたくさん百点を取ったこと。個性豊かな友達たちのこと。そして話が終わったら、一緒に遊んでもらうのだ。やっぱり父さんと遊ぶなら、ボール遊びがいい。
 父の温かい存在を全身に感じながら、ジャンはそんなことを思っていた。




続く





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