10. 大きな壁


「エルヴィンさんは、オレの父さんがゲイってこと知ってた?」

 しばらく車内は静かだった。だからと言って別に気まずいとは思わなかったが、その沈黙をジャンのほうから破る。

「知っていたよ。何せマリーと付き合い始めて間もないの頃、あなたはゲイかと訊かれたからね。なぜそんなことを訊くのかと訊き返したら、ドークさんの話になった」
「やっぱり気持ち悪いって思った?」
「いや、そういう偏見は持っていないよ。私の古い友人にも、ゲイやレズビアンはいたしね。マリーのあれは少し異常だ」
「でも再婚したんだ?」
「その点以外はとても魅力的な女性だった。穏やかだし、気が利くし、ジャンを大切にしているのも伝わってきたから。彼女とならきっといい家庭が築けるだろうと思ったよ」

 確かに母はジャンのことを大切にしてくれていると思う。けれどジャンの大好きな人を、まるで犯罪者のように言うさっきの母とは、どう足掻いても仲直りできそうになかった。いや、そもそも仲直りする気すら起きない。

「オレも……オレも、父さんと同じなんだ」

 エルヴィンならきっと受け入れてくれるだろうと、いままで家族に秘密にしていた自分の性指向を、ジャンは静かに打ち明ける。

「同じというのは?」
「オレもゲイなんだ。ごめん……」
「ああ、そういうことか。別に謝る必要なんてない。さっきも、そういうのに偏見は持っていないと言っただろう?」
「でも、他人がゲイなのと息子がゲイなのとじゃ、やっぱり違うだろ?」
「同じことだ。ゲイであることは、決して悪いことじゃない。だから息子がゲイであっても何も気にしない。ジャンも、私やマリーに悪いなんて思わなくていいんだよ」

 この人はどこまで優しいのだろう。温かな言葉が胸に沁み込んできて、ジャンはまた泣いてしまった。
 さすがに想いを寄せている相手がナイルであることは言えなかったが、ありのままの自分を受け入れてくれる存在が身近にいてくれることが、すごく頼もしく思えた。
 泣きながら道を案内しているうちに、ナイルの家の前に辿り着く。リビングのカーテンの隙間から光が零れているから、どうやらナイルはまだ起きているようだ。

「ジャン」

 エルヴィンに声をかけられ、ジャンは車のドアを開けようとした手を止める。

「マリーには上手く話をしておくよ。もちろん、ジャンがゲイであることは黙っておく。だからこちらのことは気にしないでくれ。ドークさんと話をして、ジャン自身がちゃんと落ち着いたら、うちに帰っておいで。待っているから。それで、これからはいままでよりもっとたくさん話をしよう。もちろん、ジャンが嫌じゃなければの話だが」
「ああ……ありがとう、父さん」

 この人も、間違いなく自分の父親なんだ。この世界に父親が二人いたって、別におかしくなんかない。そのことに気づいたとき、ジャンはエルヴィンのことを、自然と“父さん”と呼んでいた。
 呼ばれたほうのエルヴィンは、驚きのあまり顔を強張らせていた。やがて両方の目頭を手で押さえると、静かに鼻をすすり始める。

「父さんって呼ばなくても気にしねえって言ったじゃん……」
「いや、でも、実際に呼ばれると思っていた以上に嬉しくて……すまない」

 大人の泣く姿を見るのはナイル相手に一度経験しているが、それでもやはり戸惑ってしまう。とりあえず丸くなった背中を摩ってやったが、余計に泣かれた。

「ジャン、行ってくれ。これ以上泣いているのを見られるのは恥ずかしいから……」
「……気をつけて帰れよ? 涙で視界が歪んで事故るとかなしだからな」
「ああ、気をつける」



 ナイルの家の玄関の前に立った。
 インターホンを押そうと伸ばした手が、細かく震えている。不安な気持ちが正直に表に出ていた。それも仕方ないだろう。いまからナイルに自分の気持ちを伝えて、その先に待ち受けるのは、ジャンの望む幸せな未来か、それとも地の底まで続く暗い未来か――そんな極端な未来しかない。不安に思わないわけがなかった。
 けれどここで足踏みをしていてもどうしようもない。もう気持ちを自分の中にしまっておくことは、きっとできないだろうから。どんな未来が待ち受けていようと、先に進むしかなかった。
 ボタンを押し込むと、呼び出し音とともに足音が聞こえてくる。そしてガチャリと鍵の解錠される音がすると、ゆっくりとドアが開いた。

「ジャン!? どうしたんだよ、こんな時間に!?」
「ああ、ちょっと……」

 明かりに照らされたナイルの顔は、やはり男らしくてカッコいい。くらくらするような大人の色香が、彼の全身から溢れているようだった。

「その目……泣いてたのか? 家でなんかあったのかよ?」
「そんなとこ……上がってもいいか?」
「ああ、入れよ。リビングのソファに座っててくれ。茶を準備してくるから」

 言われたとおりにソファで待っていると、ナイルが茶を二つ持って戻ってくる。それをテーブルに置くと、ジャンの隣に腰を下ろした。
 隣にいながら、ジャンはそわそわと落ち着かなかった。いままでも、隣にいて変に意識することがなかったわけではないけれど、今日はいつも以上にドキドキしている。

「で、何があったんだ? マリーと喧嘩でもしたか? 大方ここに下宿する話をして、反対されたんだろ?」

 図星を差され、ジャンは思わず渋い顔になる。もちろん泣いた理由はそれだけではないのだが。

「母さんにはやっぱり反対されたよ」
「まあ、そうだろうな。あいつはオレのことを相当嫌ってるだろうし」
「その嫌ってる理由、今日初めて聞いたんだ」

 それを口にした瞬間、テーブルの上のコップに手を伸ばしかけたナイルの手が止まった。瞠目し、口も半開きになったまま、まるで彫刻のように動かなくなる。
 二人の間に、沈黙が舞い降りた。家電製品からわずかに発せられる電子音だけが、静まり返った部屋の中に響いている。ジャンはその沈黙を破ることはせず、ただナイルの次の言葉をじっと待つ。

「その……オレがあれだって、聞いたのか?」

 ようやく口を開いたナイルは、頭痛を抑えるかのように手を額に当てる。

「全部聞いた。父さんはゲイだから、あまり近づくなって言われたよ」
「ゲイっつーか、一応女もイケるからバイだな。そっか、全部聞いちまったのか……」

 誤魔化そうとするわけでもなく、ナイルは自分の性指向を素直に認める。けれど表情はこの世のすべてに絶望したかのように沈鬱で、放っておくと彼自身が消えてしまいそうな気さえした。

「……ジャンはなんでここに来たんだ? マリーの話を聞いて、気持ち悪りいって思わなかったのか」

 人と変わった自分の性指向を知られるのは、恐いことだ。それはジャンだってよくわかっている。互いに深い間柄にあったのなら、余計にそう感じるだろう。

「思うわけねえだろ。そりゃ、ヤクザとかアル中だったら嫌だったかもしれねえけどさ。父さんは優しい人だし、そんくらいのことで気持ち悪りいなんて思うわけねえよ。それに……それに、オレも同じだから」
「同じ?」

 ジャンは静かに頷いて、台詞を続ける。

「オレも、ゲイだから。男が好きなんだ。だから父さんと同じようなもんだよ」

 ナイルは、驚いた顔でこちらを向いた。

「本当にそうなのか? 俺を慰めるための嘘とかじゃなくて?」
「慰めるためにそんな嘘つく必要ねえだろ。マジな話だ。でも、大事なのはこっからだ」

 これまでの人生で、こんなにも心臓がバクバクしたことはないような気がする。告白なんてしたことないし、そもそも思い返せば初恋の相手はナイルだった。それからナイル一筋に生きてきて、いまに至る。想い続けて三年、その一方的な片想いに、いま終止符を打たなければならない。

「オレ、父さんのことが好きなんだ」

 声が震えた。けれど言葉はちゃんとナイルの耳に届いたはずだ。
 ナイルはまた驚いたように目を見開いた。自分はこの短い時間の間に、いったい何度彼を驚かせてしまうのだろう。

「父親としてもすげえ好きだけどさ。でも、それ以上に恋愛的な意味で父さんのことが好きだ」
「そ、それはたぶん勘違いだ。お前はちっさい頃、ずっと俺と離れて暮らしてたから、それで……」
「勘違いで自分の父親とキスしたいとか、セックスしたいって思うのかよ? そんなのもう恋愛感情でしかないだろ」
「そんなのおかしいだろっ。だって、俺はお前の父親なんだぞ? ちゃんと血だって繋がってる」
「んなこと知ってるよ。知ってるけど、好きになった」

 結局自分の気持ちが大きくなっていくのを抑えることはできなかった。先輩のライナーとどれだけセックスをしても、ジャンの心は動かないまま、ずっとナイルに囚われたままだ。

「オレは父さんの恋人になりたい」
「恋人って……お前、どういうことかわかってんのか?」
「わかってるよっ。男同士ってだけでも世間からずれてんのに、それが親子なんておかしいにもほどがあるよな。でも、好きになったもんは仕方ねえだろっ。しかもどんなに諦めようとしても、結局諦めきれねえまま三年も経っちまった」

 ナイルの顔が、髪が、声が、優しさが――すべてが愛おしくて堪らなかった。自分を慰めるのにナイルを使ったのだって、一度や二度の話ではない。これを恋愛感情と言わずして、なんと言うのだろう?

「好きなんだ」

 もう一度その言葉を口にして、けれどナイルからは何の言葉も返って来ない。困ったような、あるいは歯痒そうな顔をしたまま、しばらくの間黙り込んでしまう。
 きっとその沈黙が答えなのだろう。すぐにそう理解したけれど、ジャンはナイルの次の言葉をじっと待った。ほんのわずかに存在する希望を捨てたくなかったからだ。

「……ジャン、俺はお前が大事だし、大好きだ。でも父親なんだ。父親として、息子の人生に関わっていきたい。だから恋人にはなれない」

 声は優しかったけれど、耳に届いた言葉はとても冷たかった。その冷たさが身体の中に浸み込んできて、ジャンの心臓をギュッと締めつける。心の奥底から、虚しさと寂しさが湧き上ってくる。それが涙になってしまうのはなんとか堪えて、ジャンは声を絞り出した。

「そっか。そうだよな。親子じゃ、恋人になんかなれねえよな」

 口にしながら、心が壊れてしまいそうだった。ショックとか虚しさとか、いろんな負の感情が混ざり合って、ジャンを確実に蝕んでいく。いや、いっそ壊れてしまったほうがいいのかもしれない。壊れて何も感じなくなれば、楽になれるような気がした。

「フラれたことだし、いま聞いたことは全部忘れてくれよ。オレもちょっと散歩に行って、気持ち切り替えて来るから。戻ってきたら、いつもどおりの親子だ」
「おい、ジャン!」

 呼び止めるナイルの声を無視して、ジャンは足早に家を出る。
 追いかけてくる気配はなかったが、それでもジャンは走った。走って、走って――いつもは温かくて居心地のいい場所だけれど、とにかくいまはあの家から離れたかった。
 そうしてナイルの家が見えなくなった頃、ジャンの瞳から大粒の涙が零れ始めた。




続く





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