11. 片想いの終着点


 ふと、初めてナイルに会ったときのことを思い出す。
 あのときナイルは警察官の制服を着ていたが、無精髭を生やした顔と鋭い目つきは、どちらかというとヤクザのようだと思った記憶がある。
 それからナイルの家に行って、一緒にバレーをして、一緒のベッドで寝た。翌日は別れ際に寂しくて泣いてしまったけど、その日から月に一度だけナイルの家に遊びに行くことを許されて、嬉しかった。
 一緒にいられなかった十年の月日を埋めるような勢いで、ジャンはナイルとたくさん遊んだ。いろんなところに連れて行ってもらって、いろんなことを楽しんで――そうしているうちに、彼に恋をしてしまった。
 約三年の片想いの結末は、さっきのとおりだ。告白する以上、こうなる覚悟をしていたつもりだが、それでも少しだけ希望を持っていたせいで、ジャンのショックは大きなものになってしまった。

「父さんっ……」

 最初の一粒が零れると、あとはもうとめどなかった。まるで堰を切ったように涙は次々と溢れ出し、ジャンの頬を伝い落ちていく。
 どうしようもないくらい、好きだった。触れられるたびにドキドキして、もっと触ってほしいと、心の中で彼を強く求めた。けれどそう思っていたのはジャン一人だけで、ナイルに同じ気持ちはなかったのだ。
 親子でなければよかったのだろうか? 赤の他人だったなら、自分はナイルと結ばれることができたのだろうか? けれどジャンにとって、ナイルとの親子という繋がりもとても大事なものだった。その両方を手にしたいと願うのは、欲張りだったのだろうか?

 知らぬ間にずいぶんと家から離れた場所まで来ていて、ジャンは歩き疲れて河原に腰を下ろした。
 水が涼しげな音を立てながら流れている。それをぼうっと眺めているうちに、荒れていた心が徐々に落ち着きを取り戻してきた。涙も出し切ってしまったのか、もう出てくる気配はない。
 そろそろ家に帰らなければならない。あんまり帰りが遅いと、ナイルも心配するだろう。いや、もしかしたらジャンの顔など見たくないと思っているかもしれない。父親に恋愛感情を寄せてくる息子なんて、気持ち悪いと思われているかもしれない。
 結局、ジャンは立ち上がれなかった。ナイルと顔を合わせるのが恐くて、動けないまま、また時間が過ぎていく。
 さすがにもう帰らないとやばいと思ったのは、家を出てから一時間以上過ぎた頃のことだった。帰る前にぐしゃぐしゃの顔を洗っておこうと、ジャンはすぐ目の前の川に近づく。

「――ジャン!」

 いきなり自分を呼ぶ声がしたのは、そのときだった。すぐにナイルの声だとわかったのだが、あまりにもいきなりすぎて、驚きのあまりジャンはバランスを崩して目の前の川に落ちてしまった。
 ザパン、という水飛沫の音が上がると同時に、冷たい水の感触が頭や身体に伝わってくる。蒸し暑い夏の夜には、ちょうどいい冷たさだ。

「ジャン!」

 ナイルがもう一度ジャンを呼ぶ。慌てたような足音がこちらに近づいてきて、次の瞬間には水の中から強い力で引き上げられていた。近くの街灯の明かりが、ナイルの怒ったような顔を照らし出す。そういえばナイルの怒った顔なんて、いままで見たことがない。珍しいのと、どうしてそういう顔をしているのかわからなくて、ただ呆然とナイルを見返した。

「何してんだよ、お前は! 俺にフラれたからって、死のうとすんじゃねえよ!」
「死ぬって……」

 どうしてナイルが怒っているのか、その台詞を聞いてジャンはすぐに理解した。きっとナイルの目には、ジャンが川の中に身を沈めようとしているように見えたのだろう。フラれた直後ということもあるし、そう勘違いされてもおかしくない。

「別に死のうとしたわけじゃねえよ。泣いて顔がぐしゃぐしゃになったから、洗おうとしただけだ。フラれたくらいで死ぬほど、ヤワじゃねえ」
「そ、そうだったのか……」

 ナイルが安心したように息をつく。そして今度は少し泣きそうな顔をしたかと思うと、優しく抱きしめられた。

「心配させんじゃねえよ。なかなか帰って来ねえから、なんかあったんじゃないかって捜し回って、そしたら川の真ん前に立ってるから、心臓が止まるかと思った」
「……こんなんでも心配してくれるのか?」
「そんなの当り前だろう。お前のことが大事だって、さっき言っただろうが」

 川に落ちて少し冷えてしまったジャンの身体に、ナイルの熱がじんわりと沁み込んでくる。きっとその熱は、ナイルの優しさそのものなのだ。温かくて、柔らかくて、安心できる。その優しさが愛おしいと、たくましい腕の中でジャンは自分の気持ちを再確認させられた。

「さっきお前が家を飛び出してから、いろいろ考えたよ」

 ナイルが静かに語り出す。

「俺はお前と親子でいることに結構拘り持ってんだ。親は両方死んじまったし、マリーはあんなだろ? 繋がりのある家族つったら、もうジャンしかいねえ。だからいまの関係を大事にしたい」

 大事にしたいという気持ちは、痛いほど伝わってくる。けれどただ家族として大事にされるだけでは、いまのジャンはもう満足できなくなってしまっている。

「もし恋人同士になったら、親子っつー関係性は薄くなる。そう思ってさっきの告白は断った。けど……」
「けど……?」

 そのあとにどんな台詞が続くのか、ジャンにはまったくわからなかった。だから疑問符を乗せた視線でナイルを見上げると、彼は困ったような顔で笑った。

「恋人になったって、お前は俺のこと、いままでみたいに父さん父さんって呼ぶんだろうな。だからたぶん、俺もお前が自分の息子だってことをいつでも思い出せると思う。そうしたら親子の関係性も薄くなったりしねえよな?」
「それって……」
「正直に言うと、お前は結構俺の好みだよ。顔は男前だし、中身は可愛いし。だからいままでだって、変な気を起こさなかったわけじゃない。一緒に風呂に入ったり、ベッドの中で密着したりして、どんだけ勃起するのを我慢してたと思ってんだ」

 ナイルが両手でジャンの頬を包むようにして触れてくる。切れ長の瞳には優しい色が灯り、それがジャンの希望なんだと確信した。

「俺は結構おっさんだし、お前の実の親父だし、お前に負けず劣らずの泣き虫で意地っ張りだ。そんな男でもいいんだったら、俺の恋人になってくれ。そん代わり、そうなったらもう死ぬまで離してやらねえからな。もし別れちまったら、親子の縁も一緒に切れちまう。だから何があっても俺はお前を離さねえ。そういうの覚悟してねえんだったら、俺はやめとけ」

 暗闇に迷い込んでしまったジャンの心に、強い光が差し込んだ。それはとても眩しくて、けれど温かくて――導かれるようにして進んだ先に、ナイルがいた。
 さっき告白を断られたとき、辛くてどうにかなってしまいそうだったが、それでもナイルと出逢わなければよかったとは思わなかった。ナイルがいなければ、ジャンの人生はきっとこんなにも楽しくなかった。目に映るものすべてが、世界がこんなに色鮮やかに映ることもなかっただろう。
 一生を添い遂げる覚悟なんて、とうの昔にできている。それこそフラれる覚悟より先にできていたものだ。だからナイルの台詞に対する答えなど、始めから決まっていた。

「俺を、父さんの恋人にしてくれ」

 ほろりと涙が零れる。けれど今度は悲しみの涙ではなく、嬉しくて溢れた涙だ。

「ずっとそばにいさせてくれ。死ぬ瞬間まで、ずっと。そのためだったら、オレはもうわがままなんか言ったりしねえ」
「馬鹿だな。わがままは言ってもいいんだよ。お前は俺の息子なんだから、わがままを言う権利がある。それにお前のわがままはいつも大したことねえからな。あそこに行きたい、俺と一緒にあれしたい……父親としては、嬉しいわがままばっかだった」

 ナイルは優しげに微笑む。

「いままでもお前といられて十分幸せだった。けど、これから二人でもっと幸せになるぞ。それこそ死に際にいい人生だったって思えるくらいにな。そんでいつか誰かに自慢してやりてえな」
「そうだな。差し詰め母さん辺りに言ってやりてえ」
「おい、そんなことしたらあいつ泣くぞ」
「別にいい。このことで母さんが泣いたって、俺は別に心が痛んだりしねえよ。だって、俺は別に悪いことしてるわけじゃねえんだから。好きになったのがたまたま父さんだったってだけの話だ。それに父さんを捨てたのは母さんのほうだ。だから俺が父さんを好きになったって、母さんになんか言う資格なんかねえよ。責められる謂れなんかないね」

 自分はきっと、母よりずっとナイルのことを愛することができる。大事にし合い、支え合いながら長い人生を、歩幅を合わせて歩いていくことができるだろう。そうして今度は、母と離婚してからあの家で一人で生きてきたナイルを、幸せにしてやりたい。

「愛してる」
 
 先に言ったのはナイルのほうだった。真剣な眼差しは、その言葉に嘘偽りがないことを表している。ずつと欲しかった言葉と気持ち――三年の年月を経てようやく掴むことのできたそれに、胸がじんわりと熱くなった。

「オレも愛してる」

 そしてずっと胸の中で燻っていた熱い感情を、ジャンは言葉に乗せてナイルに届ける。長い片想いの、終着点だった。

「つ−か、お前びしょびしょだな。俺まで濡れたぞ」
「父さんが急に声かけてくるから、川に落ちたんだろうが」
「ビビったくらいでバランス崩してんじゃねえよ。ったく、帰って風呂入るぞ」
「ああ」

 照れたような顔で差し出された手を、ジャンはなんの躊躇いもなく握る。やはり温かい。いつもの安心感をくれるナイルの手だ。
 二人で夜道を歩きながら、しばらくどちらも何も話さなかった。手を繋いで歩く。小さい頃はそれが当たり前だったが、いまはあの頃とは全然意味合いが違う。もっと特別で、もっと深い愛情で繋がっているのだと、握った手の感触を確かめながらジャンは思った。
 ナイルの家が遠くに見え始めた頃、ジャンの頭にふとある疑問が浮かんでくる。それを口に出してみていいのかナイルの顔を見ながら少し悩んだが、物事をはっきりさせておきたい性質のジャンは、思いきって口を開いた。

「なあ、風呂入ったあとはどうすんだ?」
「どうするって……飯は食ってきたんじゃねえのか? それとも食ってきたけど腹減ったのか?」
「そうじゃねえよ。その、あれだよ……なんかこう、エロいこととかしねえの?」

 そう言った瞬間、隣のナイルが何もないところで蹟いた。

「お前なあ……警察官の俺に、まだ高校生にもなってない子どもを抱けってのか? いろいろ駄目だろう」
「そんなの誰にも言わなきゃ大丈夫だよ。それとも父さんはオレとしたくねえのか?」
「……そう言うお前はどうなんだよ?」
「したいに決まってんだろ。いままでどんだけ父さんに抱かれるの想像してヌいたと思ってんだ」

 自分のオカズについて正直に話すと、ナイルは悩ましげに額を押さえた。そのまましばらく一人で唸っていたが、ふと顔を上げて、こちらに視線を向ける。

「いまのでちょっと勃起しちまった」
「あ、マジだ」

 言葉のとおり、ナイルのスエットの中心部には不自然な盛り上がりができている。

「ったく、どうなっても知らねえぞ? 泣いたってやめてやらねえからな」

 どちらかというと野獣系の恐い顔をしているし、その男らしい台詞も似合っているのに、ナイルは言葉を口にしながら顔を赤くしているようだった。締まらないけど、そんなナイルも魅力的だと惚れ直す。
 夢にまで見たような展開だが、ナイルの照れた顔を見ながら、これは現実のことなんだと事実を噛み締める。ナイルはいったいどんなふうに自分を抱いてくれるのだろうか? やっぱり優しく丁寧にしてくれるのだろうか? それとも少しSっぽく責めてくれるのだろうか? そんな下世話なことを想像しながら、ジャンもナイルと同じく勃起しかけていた。




続く





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