13. 新しい二人


「――ジャン」

 ノックのあとに聞こえてきたのは、母の声だった。母から声をかけてくるなんて珍しい。ナイルの家に下宿したいと告げ、互いに罵り合って以降、二人は必要最低限の会話以外しなくなっていた。
 そんな気まずい状態が約一か月も続き、今日に至る。あれから母がジャンの部屋を訪ねてくるなんて初めてのことだし、いったいなんだろうかと思いながらドアを開けた。

「どうかした?」
「うん、ちょっとね。下に来てくれない?」

 もしかして、今頃またナイルと一緒に住むことに文句でもつける気なんだろうか? 一応エルヴィンに説得されて母も了承してくれたと聞いたが、きっと思うところはあるだろう。怪訝に思いながら母について階段を下りるが、母はそのままキッチンに入っていく。

「一緒に晩御飯作ろう」

 予想外の言葉が母の口から飛び出して、ジャンは思わず変な表情になってしまう。少し間を置いて「なんで?」と訊くと、母は困ったように笑った。

「来年、ナイルと二人で住むことになるでしょう? あの人も料理はできたと思うけど、必ず定時で仕事から帰れるわけじゃないから、きっとジャンが夕飯を作る機会も多いと思うの。だからそのための練習。外食とかコンビニのお弁当に頼っちゃ駄目よ」

 あんなにナイルを嫌い、ジャンが下宿することに猛反対していたはずの母が、こんなにも優しい。何か裏があるとは思わないが、それでも信じられなかった。だからお礼を言うよりも先に、態度が豹変した理由が気になってしまう。

「なんでオレに教えてくれんだよ? 父さんのとこに行くこと、あんなに反対してたのに」
「うん、そうね。正直まだ納得しきれていない部分もあるわ。けど、あの人もあなたの父親だもの。私とナイルがもう他人になっちゃったのと違って、その繋がりは消えないし、大事なものだと思う。それに、ジャンが出て行ったあと、いろいろ思い出しちゃった。あの人はあんまり頼りにならないし、すぐ泣くけど、それでも家族のことはちゃんと大事にしてくれてた。私のことも、ジャンのことも。だからナイルにジャンを任せても大丈夫よね」

 エルヴィンがなんと言って母を説得してくれたのかは知らないが、どうやら母はナイルのことを、ジャンの父としてちゃんと受け入れる心づもりらしい。それは素直に嬉しいし、料理だって教えてもらえるのはありがたい。けれどナイルとジャンの本当の関係を知らないからこその親切だろうから、ジャンとしてはかなり複雑な気分だ。
 かと言ってナイルと恋人として結ばれたことを家族たちに打ち明ける勇気はないし、その必要もないと思っている。何も知らないまま生きていくほうが、きっとお互い平穏な人生を送れるだろう。

「母さん、あんときは一緒にいたくないとか言ってごめんな」

 指示されたように人参やじゃがいもを切りながら、いつの日か衝動的に口にしてしまった暴言をジャンは謝罪した。

「ううん、いいの。私こそ、あなたの大事な父親のこと、悪く言ってごめんなさい」

 このまま一生気まずい関係のままでいることも覚悟していた。けれど母はジャンに歩み寄ってくれたし、ジャンだって母のことが嫌いだったわけではない。女手一つで育ててくれたことに、ちゃんと感謝している。ナイルとの繋がりも大事だけれど、母だって家族なのだ。大事に思わないはずがなかった。


 ◆◆◆


 季節が移り変わるのは早い。例年より更に暑さの厳しくなった夏が来たかと思うと、知らぬ間に秋が終わり、そして豪雪が続いた冬の寒さを実感しているうちに、いつの間にか春になろうとしている。
 ナイルがジャンと恋人同士になって約半年。中学生だったジャンも先日卒業式を終え、今日からついにこの家での共同生活が始まる。
マリーと離婚したのが、ナイルが二十四歳、ジャンが二歳のときのことだ。離婚に対しては特に悔いはなかったものの、息子のジャンと別離したのはかなり寂しかった。離婚の理由が理由なだけにジャンに会わせてもらうことも叶わず、それでもいつか会える日を願いながら、ナイルは一人で八年の時を過ごした。
 そして三十二歳になった夏、ナイルは一人でここを訪ねてきたジャンとの再会を果たした。あの瞬間のことは、五年経ったいまでもよく覚えている。自分を探しに来てくれたことがすごく嬉しくて、ジャンの小さな身体を泣きながら強く抱きしめた。
 それからマリーを説得して、月に一度だけジャンに会うことを許された。離れ離れになっていた八年分の時間を埋め尽くすような勢いで、ナイルはジャンといろんなことをして遊んだ。もしかしたら、子どもだったジャンよりも大人のナイルのほうが、二人で遊ぶことを楽しんでいたかもしれない。
 小さいとばかり思っていたジャンもどんどん背が伸びていって、中学三年になる頃には並んで立ってみてもナイルとあまり目線が変わらなくなっていた。

 愛の告白をされたのは、その頃だった。

 まさか息子のジャンが自分に対してそんな感情を持っているなんて思いもしなかった。驚いて、戸惑って、そのときはジャンの愛の言葉をすぐに受け入れることはできなかった。
 ナイルは死ぬほど悩んだ。ジャンの言葉に自分の心がまったく動かされなかったのなら、最後まで告白を拒否することができただろう。けれど、正直に言えばジャンに特別に思われていたことが嬉しかった。きっとそれは、自分の中に邪な気持ちが少なからずあったからだろう。
 ジャンに性衝動を抱いたことがないと言えば嘘になるし、あの顔は結構ナイルの好みだったりする。さすがにジャンをオナニーのオカズにするのは罪悪感に苛まれそうでできなかったが、やろうと思えば簡単に勃起させることができただろう。
 結局のところ、ナイルもジャンに対して少なからず恋愛感情を抱いてということだ。冷静に考えているうちにそのことに気づき、ナイルはジャンの想いを受け入れると同時に、自分の想いをジャンに伝え、そうして二人は結ばれることができた。
 その選択に後悔は微塵もない。なぜならナイルは、いまジャンと一緒にいて死ぬほど幸せだったからだ。



「――駄目だ、無理だ」

 落ち着かない気持ちでリビングの掃除をしながら、ナイルは無意識のうちにその言葉を呟いていた。案の定、自室の整理を終え、ソファで休憩しているジャンに聞こえてしまったらしく、鼻で笑われる。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だって。エルヴィンさん、悪い人じゃねえんだから」
「いっそ悪い人のほうが緊張しなかったような気がする。ジャンに手出しちまったわけだし、いい人なら尚更申し訳ない」

 なぜナイルが緊張しているかというと、明日この家に、ジャンのもう一人の父親であるエルヴィン・スミスが訪ねてくるからだ。
 エルヴィンはナイルの元妻の再婚相手で、今現在のジャンの父親ということになる。普通再婚相手の元夫に会いたいなんて思わないものだが、ジャンが高校三年間この家で暮らすということもあり、エルヴィンはナイルに挨拶をすると言って聞かなかったらしい。
 ジャンから話を聞く限りでは、会ってエルヴィンに嫌味を言われることはないのだろうが、それでもできることなら会いたくない。なまじ親子の垣根を越えてジャンと恋人同士になってしまった分、気まずさは倍増だ。

「なんか結婚相手の父親に挨拶するような気分だ」
「いや、オレの父親あんたのはずなんだけど……」

 きっと明日の訪問は、ナイルの品定めを兼ねている。父親として正しい行動だと思うし、ジャンを大事に思っているからこそ、わざわざ一時間もかけて訪ねてくるのだろう。

(ま、俺のほうが絶対ジャンを大事に思ってるけどな)

 それだけは自信を持って言える。

「少し休憩しろよ。つーか、もう十分綺麗じゃん。それで終わりでいいって」
「そうだな……」

 単純に部屋を綺麗にするだけではなく、心を落ち着けようと思って始めた掃除だったが、結局後者の目的は果たされなかった。ナイルはジャンの隣に腰かけ、大仰にため息をつく。
 しばらくぼうっとしていると、ジャンが身体を寄せてきて、ナイルの肩に頭を乗せる。その頭を優しく撫で、そのままジャンの肩を抱いて彼の頭に頬を寄せる。
 こういう時間が、ナイルにとって一番幸せだった。自分の中から愛情が溢れだす。息子に注ぐ家族愛と、恋人に注ぐ熱情。ジャンからも同じものを感じ取って、ナイルの心は満たされる。
 ジャンが顔を上げる気配がして、ナイルも一度頭を離す。切れ長な瞳と目が合った。途端にジャンの表情が、へなっと音がしそうなほどの柔らかい笑顔になって、可愛く唇を寄せてくる。
 少し焦らしてやると、一度閉じられた瞳が開かれ、恨めしそうにナイルを見上げた。そんな仕草も可愛いなと思いつつ、お望みのキスを与えてやる。
 セックスも好きだが、こうして抱き合ってキスをするだけというのも、結構好きだ。ジャンの熱と愛情がじんわりと伝わってきて、好きだと想う気持ちが膨れ上がる。それにキスをするときのジャンの顔が可愛かった。
 舌を絡ませる濃厚なキスを繰り返していると、ジャンの手がおもむろにナイルの股間を掴んできて、感触を確かめるように揉まれる。

「こら、今日は駄目だぞ」
「え〜、なんでだよ? 勃起してるくせに」
「今日やっちまったら、明日余計にエルヴィンさんと顔合わせづらくなるだろうが」

 それに無意識のうちに、見えるところに痕でもつけてしまったら大変だ。ジャンは「ちぇっ」と不貞腐れたような顔をしながら、ナイルの胸に頬をすり寄せてくる。

「そんな顔すんなよ。明日から、やろうと思えば毎日でもやれるだろ」
「今日もやりたかった。でもまあ、我慢する」

 縋りついてくるジャンの頭を、ナイルは優しく撫でてやる。本当に、目に入れても痛くないほど可愛い。こんなに可愛い存在が、自分の息子であり恋人でもあるなんて、こんな贅沢が許されるのだろうかと本気で思う。
 願わくは、この幸せが永遠に続いてほしい。とりあえずその幸せを継続させるためにも、明日をなんとか乗り切ろう。




続く





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