14. 二人の父親


 約束の時間が迫っている。ナイルは深呼吸を繰り返しながら、リビング・ダイニングの端から端までを意味もなく行ったり来たりする。一晩寝て起きてみても、やはり落ち着くことなどできなかった。

「あ、来たぜ」

 ジャンが窓の外を指さしながら教えてくれる。そちらに目をやると、一台のセダンが家の前に停車したところだった。

「よし、出迎えに行くか」

 ついにこのときが来てしまったと、玄関に向かいながらナイルの緊張は最高潮に達しようとしていた。危うく何もないところで躓きかけたが、変に思われないよう気持ちを引き締め、靴を履いて玄関のドアを開いた。
 ナイルが外に出るとちょうど車のドアが開いて、こちらから見て手前側になっていた運転席から、自分よりも大きな影がぬっと出てくる。
 この男がきっとエルヴィン・スミスなのだろう。歳はナイルと同じくらいだろうか。顔立ちこそ整っているが、目尻や頬の薄い皺があまり若くないことを物語っている。鮮やかな金髪は綺麗に七三に分けられ、真面目そうな雰囲気を醸し出している。いや、ジャンの話を聞く限り実際に真面目な人柄なのだろうが、それだけでなく、何か育ちの良さのようなものが滲み出ていた。

「こんにちは」

 目が合うと、優しそうな声が挨拶の言葉を告げる。持っている雰囲気のままの声だとナイルは思った。

「こんにちは。遠いところ、わざわざありがとうございます」

 噛まずに最初の挨拶を言えたことに少しだけ安堵して、ナイルは心の中で息をついた。

「いえ、こちらこそジャンがいつもお世話になっていながら、挨拶がこんなに遅れてしまって申し訳ない。それとこっちは、私の息子でジャンの弟のアルミンです」
「こんにちは」

 助手席から下りてきたのは、どこか幼さの残る中性的な顔立ちをした少年だった。エルヴィンとはあまり似ていないが、持っている柔らかな雰囲気は彼に近い気がする。

「こんにちは。二人とも、どうぞ上がってください。春になったとは言え、まだだいぶ寒いですし」
「ありがとうございます。では、お邪魔させていただきます」

 なんとか第一関門は突破した。もちろん本番はまだこれからだろうが、挨拶を交わしたことで、少しだけ緊張が解れた。――そう思ったのも束の間のことで、次のジャンの一言によって、ナイルは再び強い緊張感に苛まれることになる。

「父さん……ああ、こっちの家の父さんな。オレはアルミンと部屋で遊んでるよ」
「えっ」
「大人同士で話してえこともあるだろうしさ。それにオレもアルミンに部屋見せてやりてえし」
「わ、わかった……」

 駄目と言うこともできず、ナイルは階段を上がっていくジャンとアルミンの二人を見送った。
 二人がいなくなったということは、リビングで元妻の現旦那と二人きりということだ。なんて気まずいのだろう。というか、エルヴィンのほうはこの状況を気まずいと思っていないのだろうか?
 とりあえず彼にはソファに座ってもらって、ナイルは二人分のコーヒーを準備する。自宅でコーヒーを飲むときは、いつもミルで豆を挽いてから淹れるのが常だ。けれどエルヴィンが来てからそれをするのでは少し待たせてしまうので、今日はあらかじめ彼が訪れるタイミングで仕上がるように準備していた。見ればちょうど湯が切れるところだったため、タイミングはばっちりである。
 エルヴィンの好みの味かどうかはわからないが、奮発して少し高い豆を使ったから、決して不味いということはないだろう。……と信じたい。
 軽い茶菓子をつけて、それをリビングまで持っていく。エルヴィンはちょうど喉が渇いていたそうで、一つ礼を言うと、さっそくカップに口をつけた。

「美味しいですね。香りもいい」
「そうっすか? それはよかったです」

 どうやら彼の口に合ったらしい。自分の分を飲んでみると、確かにいつも飲んでいるものに比べて深みがあり、後味もすっきりしている。はずれではないことに心底安心した。

「それにしても驚きました。ジャンはナイルさんにかなり似たようですね。顔立ちがそっくりで、一目で親子だとわかります」
「はは、よく言われます」

 いまは髪型も同じだから、余計に似ているだろう。

「ジャンからあなたの話はいつも聞いています。あの子にすごく慕われているようで、とても羨ましい限りです」
「そんな……。エルヴィンさんのことだって、あいつはかなり慕っていると思いますよ。優しくて、ちゃんと自分のことを見てくれていて、この人がマリーの再婚相手でよかったと言ってました」

 それはお世辞でもなんでもなく、本当のことだ。ジャンはエルヴィンのことを、いつもいい父親だと言っている。部活の試合の応援も来てくれるし、参観日も仕事を休んで必ず来てくれるらしい。いまの世の中、そういう父親はそう多くないだろう。
 それからしばらく二人は互いの近況について話し合った。主にジャンが絡むことについてだが、彼自身のことにも興味があったし、アルミンの話も聞きたかったので、ナイルは積極的に話題を投下した。これならいい雰囲気のまま会話を楽しめそうだ。

「単刀直入に訊きます」

 と思っていた矢先に、エルヴィンがそう切り出した。ナイルを見つめるエルヴィンの表情は、穏やかな雰囲気から真剣なそれに変わっている。いったい何を訊かれるのだろうかと、ナイルも思わず身構えた。

「ナイルさんは、私のことを恨んでいますか?」
「恨む?」

 質問の意味がわからず訊き返す。

「私はあなたの元妻の再婚相手だし、一応大事な息子さんのいまの父親でもあります。傍から見ればまるで私がそれらを盗っていったような形に思えなくもないと思うのですが」

 確かにそうだと、エルヴィンに言われて改めて気づかされる。けれど別に恨めしい気持ちは湧いてこない。それは過去にジャンが言ってくれたある言葉があったからだと、少し懐かしい思い出が記憶の中から呼び覚まされる。

「……そう思ったことがないわけではないです。マリーのことは正直それほど気にしてないけど、ジャンに新しい父親ができちまうってのは、再婚の話を聞いたときはかなりショックでした。でも、一人で落ち込んでいるところにある日ジャンがやって来て、こう言ってくれたんです。“形の上では他の人の子どもになるかもしれないけど、自分にとってはいま目の前にいるのが本当の父親であって、それは何があっても変わらない。ずっと父さんって呼んで甘えるからな”って」

 あのときその台詞を聞いて、ナイルは感激のあまり泣いてしまった。ジャンに慕われているのはわかっていたけれど、大事に思っていてくれている気持ちを実際に言葉にされてみると、嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。

「そんなに大事に思ってくれてるんだったら、きっとこれは一生もんの縁になるんだろうなって確信しました。ジャンが新しい父親とどんだけ仲良くなっても、俺のこともちゃんと父親として慕ってくれて、それはずっと変わらないんだろうなって。だからいまはエルヴィンさんのこと全然恨んでないし、むしろジャンを大事にしてくれてるみたいで、ありがたいです」
「そうですか……」

 エルヴィンの表情が、安堵したように穏やかになる。

「そういうエルヴィンさんはどうなんですか? 元夫がいつまでも子どもに干渉してくるの、気分悪くないんですか?」

 ジャンと会いながら、いつも心の端でエルヴィンのことは気になっていた。いったいどんな気持ちでジャンを送り出しているのだろう。長年の疑問を、ナイルは思いきってぶつけてみる。

「正直に言うと、少し嫉妬したことはあります。私よりもジャンに慕われて羨ましいな、と。しかしあなたとジャンが会うこと自体を嫌だとか、もう会わないでほしいと思ったことはありません。むしろジャンにはこれからもナイルさんとの縁を大事にしてほしい」

 意外な言葉に、ナイルは少し驚いた。

「実は私の両親も、幼い頃に離婚してしまい、私は母に引き取られました」
「そうだったんですか?」
「ええ。それから母が再婚して、新しく父親になった人は私に優しくしてくれましたが、それでも本当の父親は離婚してしまった父のほうだという認識は消えませんでした。それに私は父のことも好きでしたし、だからたまに母には内緒で会いに行っては、遊んでもらっていたんです」
「それはなんっつーか……俺とジャンみたいですね」
「そうですね。そういう経験があったからこそ、ジャンの気持ちは痛いほどわかります。血の繋がりというのはやはり特別なものだと思うんです。ジャンにはそれを大事にしてもらいたい。たとえマリーに反対されたとしても」

 穏やかな家庭環境で育ったように見えるエルヴィンに、まさかそんな過去があるとは思いもしなかった。けれどそれならジャンに同調するのも理解できる。

「……エルヴィンさんは、俺とマリーが離婚した理由をご存じですか?」

 もう一つ気になっていたのが、それだ。もしそれを知っていながらジャンをナイルに預けてくれているのなら、彼はかなり理解のある人間だ。

「一通り聞いています。そのときマリーには当たり障りのないことを言いましたが、私の本心を言うなら、マリーはもったいないことをしたなと思います」
「もったいない?」
「マリーの昔話とジャンの話を聞く限り、ナイルさんは家族思いで、一家の亭主として尊敬に値する人だと思います。そんな人と離婚することを選ぶなんて、もったいないことこの上ないです。絶対に幸せになれたのに」
「でも、俺は男とも、その……」
「確かにナイルさんは少し特殊な性指向の持ち主だったのかもしれません。けど、マリーのこともジャンのことも、家族としてちゃんと愛していたのでしょう? それに浮気をしていたわけでもない。離婚は完全にマリーの一方的な偏見によるものだと思います」

 確かにそれが離婚の真実ではあるが、まさかエルヴィンがナイルのほうの肩を持ってくれるとは思わなかった。客観的な視点でそういうふうに言われたことがなかっただけに、ナイルはとても嬉しくなる。

「ジャンと会わせるのだって、私は少しも不安ではありませんでした。あなたはジャンのことをとても大切にしている。ジャンの話を聞いていれば痛いほどにそれが伝わってきます。そんなあなたがジャンを一方的に傷つけたりするはずがない」

 それだけはナイルも自信を持って主張できる。ジャンが傷つくことや、辛い思いをさせることなんて、絶対にしない。さすがに合意の上で恋人同士になったことは口が裂けても言えないが、ジャンを守ることにおいては百パーセント信頼してくれても構わない。

「今日あなたに会って、その思いは確信に変わりました。さっきジャンのことを話すときのナイルさんは、言葉の端々にジャンへの愛情を滲ませてましたから。少し緊張しましたが、今日は会えて本当によかったです」
「俺もです。エルヴィンさんが理解のある人で本当によかった。これからもジャンのこと、可愛がってやってください」
「こちらこそ、これからもジャンと仲良くしてやってください。それとすっかり遅れてしまいましたが、三年間、ジャンのことよろしくお願いします」
「任せてください」

 エルヴィンも、ナイルと同じくジャンを大事に思う父親の一人なのだ。血の繋がりはなくとも、大きな愛情をジャンに注いでくれている。その共通する感情を手に取るように感じて、ナイルはなんだか温かな気持ちになった。



 最初は緊張ばかりしていたエルヴィンとの対話だが、一時間もするとそんなものはすっかり消え失せ、音楽の趣味が共通するということが発覚してからは、二人ともすっかり打ち解け合っていた。
 熱く語り合っているうちに時刻はエルヴィン来訪から三時間も経っており、ジャンとアルミンが二階から下りてきたのを合図に、その日はお開きとなった。

「エルヴィンさん、またぜひ遊びに来てください」
「はい。またたくさん語り合いましょう。では、お邪魔しました」

 エルヴィンたちを乗せたセダンが、静かに走り出す。ナイルとジャンは車が見えなくなるまで家の前で彼らの帰りを見送っていた。

「なんかちゃっかり仲良くなってんな」

 ジャンがからかうような笑みを浮かべ、そう言う。

「まあ、同じ父親としていろいろ気の合う部分があるんだよ」
「何話してたんだよ?」
「それは大人の秘密だ」

 もう四十も近い大人二人が好きなアーティストについて熱く語り合っていたなんて、少し恥ずかしくて言えなかった。

「なあ、いい人だったろ? エルヴィンさん」
「そうだな。すごくいい人だった。そんで、お前がいかに幸せ者かを知ったよ。あっちの父さんも、大事にするんだぞ」
「わかってるって」

 ナイルはジャンの頭をくしゃくしゃに撫で回す。髪型が崩れると文句を言われたが、無視して今度は形のいい頭を甘噛みするのだった。




続く





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