15. 愛の言葉 前編


 結婚式の場で永遠の愛を誓い、愛し合う者同士が交換するのが、指輪である。もちろん結婚式の場だけでなく、プロポーズをするときなんかも渡したり、渡されたりすることのあるものだ。
 俺も昔、緊張しながらプロポーズしたときに指輪を渡したな、とナイルは離婚した元妻との思い出を振り返る。あのときの指輪を、離婚後にマリーがどうしたかは知らないが、大事にとっているということはきっとないだろう。かくいうナイルも離婚して割とすぐに川に投げ捨てた。ジャンと離れることには未練があったものの、マリーには一方的に離婚を押しつけられたあげく、最愛の息子と離ればなれにされて、結構腹を立てていたからだ。
 離婚してからずいぶんと年月が経ったとはいえ、あのときのことを思い出すと少しだけもやもやする。それを吹き飛ばすように大仰に溜息をつくと、ナイルは再び目線を、ショーケースに陳列された数々の指輪に移した。

 ジャンに指輪を贈ろうと思いついたのは、二人が恋人同士になって一年が過ぎた頃の話である。何か契りを形で表せるようなもので、なおかつペアルックにできるものが一つは欲しいと思い始め、すぐに行き当ったのが指輪だった。
 けれどナイルは、それをすぐにプレゼントしたりはしなかった。特別な思いが込められたプレゼントになるだけに、こういうのはちゃんとタイミングを計って渡すべきだと考えたのだ。
 結論として、指輪はジャンが二十歳になる誕生日のときにプレゼントすることにした。ジャンが二十歳になれば、ナイルがずっと胸の中に秘めていたある計画を実行できるし、それとセットで指輪を渡すのはなかなかにロマンチックかもしれない。

 そうしているうちにジャンは十九歳、高校もとっくの昔に卒業し、来月にはついに二十歳の誕生日を迎える。いい加減指輪も選んでおかなければならないだろうと、ナイルは街の宝石店にやって来ていた。
 ジャンの指輪のサイズはちゃんと調べてある。あとはどういうデザインのものにするかだが、ジャンはきっと高級そうなものよりも、ちょっとカッコイイ感じのものが好きだと思うし、ナイルだってそうだ。
 商品について店員にいろいろと話を聞きながら、ナイルは悩んだ末にシルバーの基盤に黒で繊細な模様が掘られた指輪に決めた。ナイルの給料ならもっと高いものを買えたかもしれないが、あまり高くてもジャンが恐縮してしまうかもしれないし、何より陳列されていたものの中では、デザインが一番好きだった。
 指輪を渡したら、ジャンはどんな反応をするだろうか? 喜んでくれるのは想像できるけど、感激の余り泣いてしまったらどうしよう。ジャンが泣くと、絶対に自分も泣いてしまう。恰好をつけたい場面なのに、それではなんだか少し情けない気がする。

「――ナイル」

 いきなり声をかけられたのは、ナイルが宝石店を出た直後のことだった。
 声のしたほうを見れば、そこにはツーブロックヘアーの背の低い男が立っている。同僚のリヴァイ・アッカーマンだ。そういえば彼の住まいはこの近くだった。最近はすっかり行かなくなってしまったが、若い頃はよく部屋に上がらせてもらい、ともに酒を酌み交わしながらくだらない話をしていたのもいい思い出だ。

「悪人面したやつが物欲しそうに宝石を眺めていたから、てっきり強盗かと思ったぞ」
「失礼だな。お前に悪人面とか言われたくねえよ」
「じゃあ何してたんだ? その袋を手に持っているってことは、何か買ったのか。まさか、四十も過ぎた薄ら髭のおっさんが、お洒落に目覚めたとか言うんじゃねえだろうな?」
「ちげえよ。人にやるプレゼントを買ってたんだよ」
「ようやく女をつくる気にでもなったか? しっかり捕まえておかねえと、歳をとるごとにそういうのは見つからなくなるぞ」

 そういうお前は独身で彼女もいないだろうが、という台詞は心の中で呟くに留めた。口に出してしまったら、きっとリヴァイにチクチクとなじられるに決まっている。

「ジャンへのプレゼントだよ。あいつもうすぐ二十歳になるからな。ちょっといいもん贈ろうと思ったんだよ」
「あの生意気なガキも二十歳になんのか。俺たちも歳をとるわけだ」

 十歳のジャンがナイルを捜して駅前の交番を訪ねてきたとき、実はこのリヴァイもあの場に居合わせていた。だからジャンのことは知っているし、その後の二人の事情――と言っても、恋人同士であること以外だが――も逐一話している。

「二十歳になるってことは、まだ研修中か。いろいろ辛いだろうが、それであの生意気さが軽減されるならいい」

 それからリヴァイとはしばらく世間話をした。最近彼とは同じ番になることがなく、二人とも何かと喋りたいことが溜まっていたせいか、会話は途切れることがなかった。
 リヴァイは口が悪いし、他人を気遣うこともあまりない男だが、表裏がなくて逆に付き合いやすいとナイルは感じている。ただ若干潔癖症が入っていて、職場の汚れにひどく敏感だ。埃一つでも見つければ、掃除当番だった者に「なってない」と文句をつけ、掃除をやり直させることもたまにある。おかげでナイルも掃除には手を抜かない性質になっていた。
 趣味はまるっきり違うのに、不思議と話は合う。だから会話も弾んで主婦の井戸端会議さながらに話し込んでいた二人だったが、それはなんの前触れもなく突然強制終了を余儀なくされる。

ガシャーン!

ガラスの割れるような音が、さっきまでナイルのいた宝石店から聞こえたかと思うと、一瞬の間を置いてけたたましい警報の音が鳴り響き始めた。

「まさか強盗か!?」
「行くぞ!」

 ナイルはリヴァイより先に走り始める。すると宝石店の入り口から、ニット帽を深く被った男が駆け出してきて、ナイルたちのいるほうとは反対側に逃げていく。

「待てッ!」

 と言われて待つやつは強盗なんかしないだろう。案の定、強盗犯はナイルのほうをちらりと振り返ると、更に速度を上げて街中を疾走する。しかし、ナイルのほうが圧倒的に速い。これも数十年間ジョギングと筋トレを手抜きせずに続けてきたおかげだろう。あっという間に強盗犯との間合いを詰めると、ついに路地裏まで追い詰める。

「おらっ!」

 ナイルは強盗の襟を掴むと、服が破けてしまうのではないかと思うほどの力で相手を引き寄せた。そのまま脛の裏側を強く蹴り、相手を転倒させることに成功する。自分でも感動するほど鮮やかに技が決まった。

「観念しろよ、糞野郎!」

 残念ながら手錠は持ち歩いていないので、両腕をまとめて掴み、身体に体重をかけて身動きがとれないようにする。リヴァイが来たら、紐か何かで拘束してもらおう。
 そう思っていたところでちょうどリヴァイが路地に入ってきた。いつもそうだが、リヴァイは焦った様子もなく、目が合っても無表情のままに近づいてくる、しかし、その目が何かを見つけて急に表情を強張らせた。リヴァイのあんな顔はいままで見たことがない。

「ナイル! 後ろだ!」
「は?」

 声の鋭さに押されてすぐさま後ろを振り返ったとき、自分を見下ろす大きな影と、きらりと光る何かがナイルの目に映った。それが自分に向かって振り下ろされた瞬間、全身を電流が流れたような感覚と同時に、すさまじい熱と痛みに襲われた。
 ナイフか何かで刺されたのだ。どうやら強盗は単独行動ではなく、仲間もどこかに待機していたらしい。瞬時にそう理解したけれど、もうそんなことはどうでもよかった。痛くて、痛くて、もういっそ殺してくれと思いたくなるくらい苦しい。
 いや、もしかしたら本当にこのまま死ぬのかもしれない。身体ももう思いどおりに動かせないし、声も出ない。背中の激しい熱が全身に回ったとき、きっと自分の命は消えてなくなってしまうのだろう。

(死にたくない……)

 いまにも熱に飲み込まれてしまいそうな意識の中で、ナイルはそう思った。

(死にたくない……。まだジャンに指輪渡してねえのに。結婚してくれって、言ってねえのに……)

 頭に浮かんでくるのは、最愛の息子であり恋人でもあるジャンの顔ばかりだ。笑った顔、泣いた顔、怒った顔、照れた顔……いままで自分の見せてくれた彼のいろんな表情が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。

「ナイル!」

 自分を呼ぶ声が誰のものなのか、ナイルにはもうわからなかった。思い出そうともしないまま、意識は完全に熱に浸食されてしまうのだった。




続く





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