16. 愛の言葉 後編


 窓の外の景色が、夕方の色に染まり始めていた。今日の仕事ももうすぐ終わりだ。帰ったらとりあえず風呂に入って、それから晩御飯を作って食べて、この間録画しておいたドラマでも観よう。明日は休みだし、寝るのが遅くなっても大丈夫だ。
 交番の出入り口のドアが開いたのは、ナイルが最後に一服タバコを吸おうかと考えついたときのことだった。
 遠慮がちに入ってきたのは、小学校高学年くらいの少年だった。眉にかかるくらいに伸ばした土色の髪の毛に、少し鋭さを感じさせる切れ長の瞳。将来結構な男前になりそうな顔立ちだ。

「どうした坊主、落し物でもしたか?」

 無精髭を生やしているせいで、ナイルの顔はどうも子どもには怖い人のように見えるらしい。だから精一杯の優しげな笑顔をつくりながら、ナイルは少年の元に歩み寄った。
 一方の少年は、怖がっている気配こそないものの、興味深そうにナイルの顔をじっと見上げてくる。こんな怖そうな顔をした人が、本当に警察官なんだろうかと疑われているのかもしれない。

「人を探してるんです。この住所がどのへんなのか教えてください」

 差し出された紙切れには、子どもの字でこの辺りの住所が書かれていた。番地的に、ナイルの家から近い。――いや、違う。近いのではなく、これはナイルの家の住所そのものだ。
 ナイルは少年の顔をまじまじと見返した。自分を探しに来た、小学校高学年くらいの男の子。土色の髪の毛はさておき、切れ長の瞳はよく見れば自分に似ている気がする。思い当たる子どもなんて、この世に一人しかいない。

「坊主の探してる人ってのは、なんていう名前だ?」
「ナイル・ドークって人。オレの父さんなんです」

 父さん――そう呼ばれたことに一瞬ドキリとして、けれど目の前の少年がさっき思い当たったのと同一人物であると確信し、ナイルの胸は沸騰しそうな勢いで熱くなる。

「ナイル・ドークは、俺だ」
「え……」

 少年が驚いたように目を見開いた。

「お前……ジャンなのか?」
「うん……うん、そうだよ父さん」

 十年近く前に離婚して、別れた妻に引き取られていった、自分の息子。会いたいと切に願いながらも、それを許されず、一生再会できないことも覚悟していた。

「父さん……ずっと会いたかったよ」

 ジャンがナイルの身体に縋りついて、子どもらしくわんわんと泣き始めた。

「俺も会いたかったぞ、ジャン。こんなに大きくなりやがって……」

 最後に見たとき、ジャンはまだ小さな赤ん坊だった。仕事で疲れて眠っているときに、夜中に泣いて起こされることもしばしばあった。けれどそれをストレスに感じたことはなかったし、むしろ率先してナイルがあやしてあげることが多かった。それほどまでに、ジャンは可愛くて大事な存在だったのだ。

「父さんっ、父さんっ……」
「ジャン……」

 すっかり大きくなったジャンの身体をナイルは優しく抱きしめる。
 ずっと会いたかった。けれど会うことは許されず、あれからもう十年近くの年月が経ってしまっていた。再会を半ば諦めながらも、心のどこかでジャンが自分を訪ねに来てくれるのではないかと期待していた。それも夢で終わってしまうのではないかと思っていたけど、こうして現実のものとなり、あのとき離れてしまったジャンはいま自分の腕の中にいる。
 嬉しかった。どうしようもないくらい嬉しくて、涙がボロボロと溢れ出す。子どもの前で情けない姿は見せたくなかったけれど、涙を止めることはできなかった。



 眩しい、と目を開けた瞬間にナイルは思った。白い照明の明かりが目に突き刺さるようで、慌てて再び目を閉じる。
 寝返りを打とうとした瞬間、背中に激痛が走った。いや、痛いというよりも熱い。火で炙られているのではないかと思うほどだ。
 その熱さに苦しんでいるうちに、ナイルは意識を閉ざす前の出来事を鮮明に思い出す。強盗を追いかけ、捕えたと思ったらその仲間にナイフで背中を刺されたのだった。約四十二年の人生で体験した痛みの中で、間違いなくナンバーワンの痛みだっただろう。
 もう一度目を開いて、自分の置かれた状況を確認する。そこはベッドの上だった。腕には点滴が繋がれ、口には呼吸器があてがわれているという、なかなかに仰々しい状態だ。
 どうやら自分は死なずに済んだらしい。背中は痛くて最悪な状態だが、それでも死ぬよりは百倍ほどましである。
 安堵の息を零したところで、ナイルはようやくベッドの端に上半身を乗せた人間がいることに気がついた。どうやら眠っているらしい。顔は伏せて見えないけれど、それでもそれが誰かなんてすぐにわかった。
 ナイルは彼の土色の髪をそっと撫でた。髪質は自分と同じく少し柔らかく、触り心地がいい。
 撫でくり回しているうちに、彼の身体が軽く身じろぎして、伏せていた上半身がゆっくりと起き上がる。一つ欠伸をしたあとに、切れ長の瞳と目が合った。

「よう」

 声をかけると、ジャンは驚いたように目を見開いた。その瞼は赤く腫れていて、彼が泣いていたことを素直に教えてくれる。

「よう、じゃねえよっ。人がどんだけ心配したと思ってんだ」

 一度は怒ったように目つきを鋭くしたジャンだったが、ナイルが笑いかけると、今度は辛そうに顔を歪める。瞬く間に涙が瞳から溢れ出して、「馬鹿野郎っ」と言いながらナイルの身体に縋りついてきた。

「心配かけてごめんな」

 ジャンは警察官の制服を着ていた。警察官は基本的に制服を持ち帰れない決まりになっているから、きっと研修中に慌ててここに駆けつけてきたのだろう。不謹慎だが、そこまで心配されたことが結構嬉しい。
 ジャンが落ち着くまで、ナイルは彼の背中を撫でてやった。あんなに小さかったジャンも、いまではすっかり大人の身体になっている。服の上からでも、程よく筋肉が乗っているのがよくわかるし、顔立ちも精悍な青年のそれに変わっている。けれど、どんなに彼が成長したって、ナイルにとってはいつまでも可愛い息子で、最愛の恋人だ。

「ジャン、そこの小さい袋取ってくれねえか」

 嗚咽が止み、ジャンが顔を上げたところで、ナイルは彼に壁際に置いてあった手提げ袋を取ってくれるようお願いした。

「なんだこれ? 父さんにしてはずいぶん洒落た袋だな」
「俺にしては、とか言うな。ちょっと早いけど、誕生日プレゼントだ」

 ナイルはジャンからは見えないよう、布団の中で袋の中身を出し、小さな箱を開ける。

「左手出せよ」
「ひょっとして、腕時計?」
「はずれ。もっと特別なもんだよ」

 ジャンの指はいつ見ても綺麗だ。爪も形が綺麗に整えられ、色艶もよい。いったいどんな手入れをしているのだろうか。
 ナイルは差し出されたジャンの左手をそっと握る。そしてその薬指に、小さいけれど、とても大きな気持ちのこもったリングをゆっくり嵌め込んだ。

「ジャン」

 呆然としたように指輪を見ていたジャンが、呼ばれて顔を上げる。ナイルはその瞳を、心の中まで覗き込むようにじっと見つめた。

「俺と結婚してくれ」

 本当はもっとそれなりの雰囲気をつくってから、その言葉をジャンに伝えたかった。たとえば高級ホテルの最上階、綺麗な夜景をバックに、もっと情熱的な言葉でプロポーズをするとか。
 残念ながらここは病院の一室で、しかもナイルは怪我人だ。ロマンチックな雰囲気なんて室内のどこにも見当たらない。けれどナイルは、いま伝えておかなければならないと思った。ジャンに泣き顔ばかりさせたくないという思いもあったし、何より自分自身に対しての戒めとして、ここでいまちゃんとしておかなければならない。

「お前を愛してる。今回みたいに、心配かけちまうことがこの先ないとは言い切れねえけど、そうならないように、お前が毎日笑って生きていけるように、最大限の努力をする。――俺にとっての幸せは、お前と一緒にいることだ。お前もそう思っているなら、俺と結婚してほしい」

 握っていたジャンの手が震えていた。さっきようやく嗚咽が止んだと思っていたのに、再び涙が頬を伝い落ち始める。

「オレも父さんのこと愛してるよ。でも結婚って……オレら男同士じゃねえか。それに親子だし……」
「確かに、男同士じゃ結婚はできねえわな。だからまあ、養子縁組だよ。俺ら血は繋がってるけど、戸籍は別になってるしな。俺は欲張りだから、血の繋がりだけじゃなくて、戸籍も欲しいんだよ。正式にお前を俺の息子……つーか、気持ち的には妻だな。とにかく、書類の上でも家族になりたいってことだ」

 ジャンを養子にすることは、彼と恋人として付き合い始めた当初から考えていたことだ。けれど未成年は親の許可がなければ養子にはなれない。マリーは絶対に反対するだろうし、理解のあるエルヴィンでさえ、許してくれないかもしれなかった。
 しかし、ジャンはもうすぐ二十歳になる。二十歳になれば親の許可がなくても、基本的には本人の意思だけで養子になることができる。ナイルはそれをずっと待っていたのだ。

「オレでいいのか?」

 震える声でジャンが静かに呟いた。

「こんなんで、いいのかよ。わがままだし、口も悪いし、すぐ泣くし……」
「わがままなのも口が悪いのも、昔から知ってる。知っていて、それでもお前がいいんだ。あとすぐ泣くのは俺も一緒だから気にすんな」
「父さん……」

 ジャンが覆い被さるようにしがみついてくる。体重をかけられたせいで、怪我をした背中が痛かったけれど、それでもその身体をぎゅっと腕の中に抱きしめる。
 愛おしくて堪らない。泣き虫で、意地っ張りで、強がりで……悪いところもあるかもしれないけれど、それを含めて、ジャンのすべてが愛おしかった。
 幸せにしよう。人生に一片の悔いも残らないように、いい人生だったと自信を持って言ってもらえるように。――ナイルはそう決意するのだった。




続く





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