17. 黒のアゲハ蝶 「ただいま」 「お帰り。寒かっただろう? 風呂入って温まってこい」 「ああ」 家の中は暖房が効いているおかげでとても暖かく、外の凍てつくような寒さから解放されたジャンは、思わずほっとする。脱いだ外套を洋服かけにかけ、ナイルに勧められたとおりに風呂場へ向かう。 「父さんは一緒に入んねえの?」 「わりぃ、今日は先入らせてもらった。寒すぎてやばかったからな」 「わかった」 確かに今日の寒さはやばい。雪も結構降っているし、この調子で行くときっと明日の朝には積雪で大騒ぎになっていることだろう。 ジャンは脱衣を済ませると、身体を洗うより先に湯船に浸かる。一度身体を温めてからでないと、この寒さには耐えられそうになかった。 温かい湯が冷えた身体に沁み込む。その感触に身を任せながら、ジャンはさっきキッチンで料理をしていたナイルのことを思い出す。 ジャンがナイルと結婚――正確には養子縁組だが――してからもう二十年の歳月が経っている。恋人になり、一緒に住み始めてからは二十五年。いろいろあった二十五年間だったが、二人の愛が冷めることはなく、平和で幸せな日々を送っていた。 さすがに回数は減ったけれど、夜の逢瀬も飽きることなくしているし、愛しているという気持ちを伝えることは、毎日欠かさずしていることだ。 ナイルは二年前に警察官を定年で退職し、いまは専業主夫をしている。六十二歳と孫が何人かいてもおかしくない年齢だが、顔は皺こそ増えたものの、相変わらずワイルドな男前だ。 平和な日常に退屈をしていないわけではないけれど、ジャンはいまの人生に不満など何一つない。ナイルのそばにいられて毎日幸せだ。 そういえば明日は、ジャンのもう一人の父親であるエルヴィンが訪れる予定だ。ジャンが高校に入学する前にナイルとエルヴィンは初めて顔を合わせたのだが、それ以来意気投合したようで、時々二人で会っては趣味の話をしている。定年してから互いに時間を持て余すようになったのか、最近はその回数が増えた。 「ジャン、さっき携帯鳴ってたぞ」 風呂から上がると、ナイルが鞄を指さしながら教えてくれた。 確かに着信が一件入っている。いったい誰からだろうと画面をタップすると、“ライナー・ブラウン”の文字が表示された。 どんよりとした空気が漂っている。参列した者皆が身に着けている喪服が、その空気をよりいっそう引き立てていた。――ライナーの妻、クリスタの葬式だった。 クリスタはジャンの中学のときの同級生で、男たちの間では“天使”と呼ばれてもてはやされていた。当の本人はその呼び名を嫌がっていたらしいが、呼び名に恥じぬ端麗な容姿の持ち主で、性格も慈愛に満ちた優しい少女だった。 当時、ライナーが彼女に恋をしているのは知っていたが、まさか二人が本当に結ばれるなんて思ってもみなかった。ジャンの記憶が正しければ、二人は二十代半ばに結婚して、いまは子どもが二人いるはずだ。きっとライナーの隣にいる二人がそうなのだろう。アニとトーマス……しばらく見ないうちにずいぶんと大きくなっていた。 「ジャン、来てくれてありがとな」 式が終わって、ジャンはライナーと二人きりで話した。いつもは頼れる兄貴分なライナーだが、この日ばかりは迷子の子犬のような、不安で寂しそうな顔をしていた。彼とは長い付き合いだが、そんな顔は一度も見たことがない。なんだかすごく可哀相に思えた。 「クリスタ、いつから悪かったんだ? 半年前、一緒にうちに来たときは元気そうに見えたけど」 「あの直後くらいに自覚症状が出始めて、すぐに検査して癌だと発覚したんだ。それからはあっという間だったな。弱っていく姿を見るのは、かなり辛かった」 それはそうだろう。自分が愛した人なのだから。ジャンだって、ナイルが年老いていくのを見るのは結構辛い。この間彼の髪の毛の色が白くなってきたことに気づいて、切ない思いに駆られたばかりだ。 「こうして見ると、ただ普通に眠ってるみたいだな」 棺の中のクリスタは、とても病気で亡くなった人間には見えないほどに綺麗だった。ライナーがエンバーミングを頼んだらしく、化粧もしっかり施され、いまにも目を覚ましそうなほどに艶やかだ。 「そうだろう? 一昨日まで、弱ってはいたけどちゃんと会話はできてたんだ。元気になったら映画を見に行きたいって言ってて……。まだ死んだって実感湧かねえな。いまも俺の名前を呼んできて、笑いかけてくれるような気がするよ」 クリスタを見つめるライナーの瞳は、とても優しかった。同時にとても寂しそうで、いまの彼の気持ちを考えるとジャンのほうが泣きたくなる。 「クリスタが死んじまってから、身内への連絡や葬式の準備で忙しくてさ、泣く暇なんかなかったよ。で、式が終わって落ち着いてから泣こうと思ってたら、今度は子どもたちが泣くの我慢してんのな。だから俺も泣くに泣けなくなっちまった」 そう言ってライナーは、いまにも泣き出しそうな顔で笑った。 ジャンはもう見ていられなかった。辛そうなのに、それを我慢している姿は見ているほうが辛くなる。 ジャンは膝立ちになって、座っているライナーをそっと抱きしめた。そのたくましい背中を何度もさすり、短い髪の毛を梳くように撫でてやる。 「ジャン、俺は……」 「辛いんなら泣けよ。我慢すんな。いまたくさん泣いて、明日はクリスタを笑顔で見送ってやれよ。クリスタだって、たぶんお前の泣いてる顔よりも、笑顔のほうが見たいと思うぜ」 ライナーはしばらく何も言わなかった。自分の慰めなんて必要なかっただろうかとジャンは思ったけれど、突然背中を強く抱きしめられる。 腕の中の身体が震えた。ついで鼻をすする音が聞こえてきて、ライナーが泣き始めたのだと理解した。 「ぐっ……クリスタっ、クリスタっ」 嗚咽を零しながら、ライナーは何度も最愛の人の名前を呼んだ。 普段たくましくて頼りになるライナーでも、最愛の人を亡くしたら、こんなにも弱くなってしまう。それならナイルを亡くしたとき、たいして強くもない自分はどうなってしまうのだろう? 立ち直ることなどできるのだろうか? 子どものように泣きじゃくるライナーを抱きしめながら、ジャンはこの先訪れるであろうナイルとの別れについて、少しだけ考えていた。 「ライナー、いつでも俺んち遊びに来いよ。俺も時々こっちに来るからさ。そんで一緒にバレーとか楽しいことして遊ぼうぜ。そしたら寂しい気持ちも少しは紛れるだろ?」 「……ありがとな。お前いつの間にか優しくなったな。昔は他人を気遣うことなんて全然しないやつだったのに」 「この歳で他人を気遣えなかったら駄目だろ」 目を泣き腫らしてはいたけれど、ライナーはそれでも少しだけ笑ってくれた。無理のない、自然な笑顔だ。きっと彼はクリスタがいないことに寂しさを感じながらも、父親としてたくましく生きていけるのだろう。 「ただいま」 「お帰り。ライナーのとこ、大丈夫そうか? まだ子どもも中学生だったよな?」 ソファに腰かけると、ナイルが温かいお茶を用意してくれる。 「あいつの子どもたちは、あいつに似てたくましいみたいだからな。寂しそうではあったけど、大丈夫だと思うぜ。ライナーもなんとか頑張れんだろ」 「そっか。ならいい」 ナイルもジャンの隣に座り、自分の分の茶を一口飲んだ。 その横顔を見ながら、ジャンはさっきのライナーの様子を思い出していた。彼とは長い付き合いだが、悲しくて涙する姿は初めて見た。悔し涙は中高生時代に何度か見たことがあるけれど、さっきのライナーは、そのときには感じなかった悲壮感をまとっていた。 大事な人が死ぬのは悲しい。ジャンだってそんなことくらいわかっていたが、いままでそういう状況に遭遇することがなかっただけに、クリスタを亡くして泣いているライナーの姿は強く胸に焼きついていた。 「なあ、オレ父さんが死んだらどうやって生きていけばいいんだ?」 年齢的に考えて、まず間違いなく先に死ぬのはナイルのほうだ。残された自分は、きっとライナーのように静かには泣けないだろう。嘆き悲しんで、ナイルの身体に縋りついて、何も考えられなくなってしまう自分が容易に目に浮かんでくる。 「俺が死んだときのことなんて、考えても仕方ねえだろう。ああ、遺産とか保険はちゃんとお前に渡るようにしてっから、安心しろ」 「そんなもん、別に欲しくないね。オレは父さんのそばにいたい。一人で生きていくのは嫌だ」 この家に一人でいたって、寂しいだけだ。温もりもなく、楽しみもなく、ただ歳をとっていくだけの人生なんて耐えられる気がしない。 「父さんが死んだら、オレも死のうかな……」 言った瞬間に、頭に鈍い痛みが走った。ナイルに拳骨を喰らわされたのだ。 「いって……」 「死ぬなんて、俺が許さないからな。もし本当に死んだりしたら、あの世でお前と再会しても無視してやる」 「でも……」 「でも、じゃねえ。それは絶対許さないからな。よく覚えておけ」 怒っている気配が、隣からまざまざと伝わってくる。確かに恋人に死なれるのは、自分の後追いだとしてもちっとも嬉しくないなと気づいて、ジャンは小声で「ごめん」と謝った。 「でも父さんがいなくなっちまったら、寂しくて毎日泣いちまう気がするよ」 「そんなの最初だけだよ。段々と慣れてきて、そのうち一人でたくましく生きていけるようになるさ。何か打ち込める趣味とか持ってたら尚更大丈夫だな」 「そんなもんなのか?」 「そんなもんだよ。俺の両親が死んじまったときも、そんな感じだった。悲しんでたって死んだやつは帰ってこない。ならいまの世界で何か楽しみを見つけて、それに没頭していたほうがよっぽど有益だ」 理屈はわかるが、でもやっぱり寂しさは拭えない気がする。 「父さん、死なないでくれよ。ずっとオレのそばにいてくれ」 ジャンはナイルの手を握る。優しく握り返され、反対の手で頭を撫でられた。 「そりゃ、俺だって死にたくはないさ。お前に寂しい思いをさせたくないからな。――そうだ、もし俺が死んだら、オニヤンマになってまたここに戻って来てやるよ」 春になると、この辺りにはオニヤンマがよく飛んでいる。決して嫌いではないが、愛情が湧くかどうかは見た目的にちょっと微妙だ。 「なんでオニヤンマなんだよ。せめて蝶々とかにしてくれ」 「そうか? じゃあ、黒いアゲハ蝶になってお前のとこに戻って来てやる。だから寂しくなんかないさ」 「でも喋れないじゃん」 「そこはなんとかするさ。地面に文字を書くとかあるだろ?」 「蝶々の身体でそんなことできるのかよ」 「やってみないとわからん。まあ、そういうわけだから、ちゃんと生きるんだぞ」 「……わかったよ」 いつものように抱きしめられ、額に柔らかく口づけられる。昔と変わらない、深い愛情を感じる瞬間だ。 この時間が永遠に続けばいいのに。ナイルの熱を全身に感じながら、ジャンはそう願わずにはいられなかった。 |