終. End of foolish love=Beginning of eternal love


 無重力空間にでもいるかのように、身体がとても軽かった。眼下には澄んだ青色の海が広がっている。ここは夢の中の世界だと、ジャンはすぐに理解した。

「ジャン」

 自分を呼ぶ声がした。聞き慣れた、愛しい人の声だ。
 振り返ると、やはりそこにはジャンの最愛の人が立っている。けれど、そこにいたナイルはずいぶんと若い姿をしていた。きっと四十歳前、ジャンが十代半ばの頃に見ていたときの姿だ。

「ずいぶんと若返ったな」
「夢の中でくらい、若い姿でいさせてくれよ」
「オレは爺になった父さんの顔も嫌いじゃないぜ」
「お前がよくても、俺が嫌だ」

 白髪一つない黒髪に、あまり皺のない顔。いまはもう写真の中でしか見られない懐かしい姿を、ジャンはまじまじと見返した。

「なあ、お前はいま幸せか?」

 唐突に訊ねられ、ジャンは一瞬きょとんとしてしまう。質問を投げかけてきたほうのナイルは、真剣な表情だ。

「幸せに決まってんだろ。どんだけ父さんに大事にしてもらってると思ってんだ」
「幸せな人生だったって、自慢できるか?」
「当たり前だろう。まあ、自慢できる相手は限られてるけどな。父さんと恋人になって、それを後悔したことなんか一度もねえ。むしろ感謝したいことばっかだったよ」
「そうか。俺一人だけが満足してるわけじゃなくてほっとした」

 ナイルは優しげに笑う。

「俺も、お前と恋人になったことを後悔したことは一度もない。ただそれが正しいことだったのかどうかと訊かれると、ちょっと自信ねえな。けど、二人ともそれに満足してるんだったら、何も間違ってなかったってことだよな?」
「そうなんじゃねえの? 少なくともオレはそう思うぜ」

 確かに自分たちは、世間一般からはずれてしまったかもしれない。けれど、当の本人たちが満足している上、誰にも迷惑をかけていないのだったら、何も間違っていなかったと言えるだろう。
 陽射しが眩しい。そういえば昔はナイルと一緒に海でよく泳いでいた。同じ浮き輪に掴まって、沖のほうまでいくと密かに身体を密着させ合い、ちょっとした触り合いなんかもした覚えがある。懐かしい思い出だ。

「最後にお前の気持ちが聞けてよかったよ。これで心置きなく、あっちに行ける」
「あっち?」
「お前もなんとなくわかってんだろ? あっちはあっちだ」

 ナイルは今年で八十五歳になる。歳の割にはよく動くほうだが、それでも一般的に寿命と言われている年齢には差しかかっている。あっちと言われて思いつくのは一つしかない。

「ジャン、俺は死ぬまでお前といられて幸せだった」
「そんな台詞、聞きたくない」

 聞いてしまったら、別れのときが来てしまう気がする。だから耳を塞いだけれど、ナイルの声はジャンの頭の中に直接響いてきた。

「言わせてくれ。俺は本当に幸せ者だった。お前が俺を探しに交番まで来てくれたとき、どんなに嬉しかったことか」

 あの瞬間のことは、いまでも鮮明に思い出すことができる。ずっと会いたいと願っていた父との再会。嬉しくて思わず泣いてしまったけど、見上げるとナイルもジャンに負けないくらい泣いていた。

「俺の息子として生まれてきてくれてありがとう。俺の恋人になってくれてありがとう。――幸せをくれて、ありがとう」
「父さんっ!」

 一歩後ずさったナイルに、ジャンは跳びつくような勢いで駆け寄った。けれどいつもの安心するような温もりに触れることは叶わず、抱きしめたかった身体をすり抜けてしまう。そして振り返った先に、ジャンがこの世で最も愛した人の姿は、どこにもなかった。



 ライナーから話を聞いて覚悟はしていたが、葬式が終わるまで悲しみに暮れている暇なんか少しもなかった。近親者への連絡や様々な手続き、式の手配で休む間もなく働き、すべてが終わった頃に、悲しみより先に疲れがどっと押し寄せてきた。弟のアルミンに少し手伝ってもらったとはいえ、定年してあまり動かなくなった身体にはなかなかにきつい。
 ジャンは棺に身を寄せる。エンバーミングをしたわけでもないのに、ナイルの顔はずいぶんと綺麗だった。表情も穏やかで、文字どおり安らかな眠りについていると言った感じだ。それはひとえに、彼が最後まで病気一つしない健康体だったからゆえのことだろう。
 頬に触れると、驚くくらい冷たかった。本当に死んでしまったのだと実感して、急に悲しみが込み上げてくる。
 
 十歳で初めてナイルの顔を見たときのこと。

 十二歳でオナニーを教えてもらったときのこと。

 ジャンが他の男の子どもになってしまうと、ナイルが腕の中で泣いたときのこと。

 十五歳で、ナイルに自分の恋心を打ち明けたときのこと。

 初めて身体を重ね合ったときのこと。

 二十歳になる直前に、結婚してくれと指輪をプレゼントされたときのこと。

 懐かしい思い出の数々が、まるで映画のワンシーンのように、ジャンの頭の中にフラッシュバックされる。どれも温かな愛に満ち溢れていて、自分は本当に幸せ者だったのだと改めて気づかされる。

「父さんっ……」

 きつく目を閉じると、湛えていた涙が頬を伝った。ナイルのことだからきっと、ジャンの泣き顔なんか見たくないだろうけれど、心の奥底から湧き出した悲しみと寂しさは、泣くのを我慢することを許さなかった。
 溢れ出した涙は、冷たくなったナイルの身体に零れ落ち、そのたびに雨降りのような音を立てる。泣くなよ、と言いながら彼が自分に手を差し伸べてくれるのを想像して、余計に虚しくなった。もう、そんな優しさに触れることはできない。大好きだったあの温もりに包まれることは、もう二度とないのだ。
 静かな家の中に、ジャンの嗚咽だけが響き渡る。それがようやく納まった頃に浮かんできたのは、大きな感謝の気持ちだった。

「父さん、ありがとう」

 ジャンは冷たくなったナイルの頬にそっと触れる。

「オレ、父さんのおかげで人に自慢できるような、幸せな人生を送れたよ」

 そばにいると、いつも優しい気持ちになれた。身に余るような愛情を感じることができた。時には喧嘩をしたこともあったけれど、一度だってナイルの息子として生まれて来たことを、そして彼の恋人になったことを後悔したり、間違ってしまったと思ったりしたことなどない。

「だから、ありがとう。いろんなもの、たくさんくれて……オレを愛してくれて、ありがとう。――おやすみなさい」



 インターホンの音がしたのは、ジャンがひとしきり泣いて、落ち着いてから数時間後のことだった。誰が来たかは、なんとなくわかった。
 外に面した和室の掃出し窓から玄関を覗くと、見慣れた短い金髪が見える。やはりライナーだ。

「ライナー、上がっていいぞ」

 声をかけると、ライナーは頷いてから玄関のドアを開ける。和室に入ってきた彼の顔は、部屋の中心に横たえられたナイルを目にした途端、いまにも泣き出しそうな表情になった。

「わりいな。せっかく旅行に行ってたのに」

 ライナーは一昨日から海外旅行に出かけていた。それを呼び戻すのもひどく心が痛んだが、ナイルの死を知らせないのはもっと悪い気がして、昨日国際電話をかけたのだ。

「いいって。でも驚いたな。まさかおじさんが急に亡くなるなんて思ってもなかった」

 それはジャンも同じだ。ナイルは膝が悪かったところを除けば、歳の割にずいぶんと元気だったし、一昨日だってなんの不調もなく、いつもどおりの日常を送っていた。死が迫っていたなんて、欠片も感じさせない様子だった。
 ライナーは棺の中をじっと見つめる。しばらくして細い瞳が閉じられたかと思うと、鼻をすする音が聞こえ始める。

「ごめんな。本当は俺がジャンを慰めなきゃいけねえのに……」

 時折息を詰まらせながら、ライナーはさっきのジャンに負けないくらい、わんわんと泣いた。
 ライナーを初めてナイルに紹介したのは、高校に上がってすぐのことだった。いろいろあって最初はライナーに素気なく接していたナイルだったが、彼がジャンに負けないくらいのバレー馬鹿だと知ると、十年来の親友のように扱い始めた。
 それから一緒にバレーしたり、三人でバレーの国際大会を観戦しに行ったりしたこともある。ライナーが実業団のバレーチームに入団が決まったときは、まるで本当の父親のようにナイルは喜んでいた。
 ナイルがそんなだったからこそ、ライナーも彼の死が悲しいのだろう。棺のそばで震える背中をジャンは優しく撫でつつ、その隣で、もう何度も見た安らかな仏の顔をもう一度眺めた。

「お前は、大丈夫なのか?」

 嗚咽が落ち着くと、ライナーが泣き腫らした顔で訊いてくる。

「オレはもう大丈夫だよ。さっき散々泣いたしな。いまはなんか、父さんに感謝する気持ちでいっぱいだよ」

 ジャンはライナーのそばを離れると、掃出し窓を開けてウッドデッキに出る。そこから五十年近くをナイルとともに過ごしてきた家を見上げ、息をついた。

「この家ももうボロだな。そろそろやばい気がする」
「確かにそうだな。壁紙もところどころ剥げてるし、歩くと床が軋むとこ多いな」

 ジャンが生まれる一年前にできたと言っていたから、築六十年は有に超えている。こちらもそろそろ寿命かもしれない。

「なんだったら、俺んちで一緒に住むか? 一応まだ築三十年だし、まあ俺らが死ぬまではなんとかなるだろ。つーか、広すぎて寂しいんだわ」
「はは、それもいいかもな。でも……やっぱ父さんとずっと暮らしてきたところだからさ。もうちょっとだけここにいるよ。どうにも家のほうが駄目そうだったら、お前んとこに押しかける」
「そうかよ。まあ、気長に待つとするか」

 部屋の中に戻ろうとした瞬間、一陣の風がジャンの身体を突き抜けていく。春も中頃に差しかかっているせいか、それは少しだけ温かかった。
 ふと視線を下に向けたとき、喪服の胸の部分に黒い何かが付いているのに気がついた。喪服と同化していて一瞬わからなかったが、よく見ればそれは黒色をしたアゲハ蝶で、艶のある羽をゆっくりと動かしている。
 喪服を軽く引っ張って揺らしても、アゲハ蝶はジャンの胸元から離れなかった。別に蝶は嫌いではないし、羽の模様も綺麗で見る分にはいい。だからそれきりそのアゲハ蝶を追い払おうとはせず、珍しいこともあるものだと思いながら、ジャンは部屋の中に戻ろうとする。

『俺が死んだら、黒いアゲハ蝶になってお前のとこに戻って来てやる。だから寂しくなんかないさ』

 唐突に思い出したのは、遠い昔にナイルが自分に言ったその台詞だった。
 ジャンははっとなって、自分の胸元にもう一度目をやる。そこには相変わらず黒いアゲハ蝶が、まるで愛しいものに寄り添うようにぴったりとくっついていた。

「そっか。父さん、ここにいたんだな」

 あの言葉は嘘ではなかったのだ。本当に黒いアゲハ蝶になって、ナイルはジャンの元に戻って来てくれた。
 胸が温かくなる。ジャンの胸にぽっかりと空いていた穴が、ゆっくりと閉じていくような気がした。

「どんだけ心配性なんだよ、父さんは。でも……ありがとな」

 零れ落ちた一粒の涙は、吹きつけた強い風に浚われて、春の夕空に舞い上がっていく。
 特に病気はないが、自分があと何年生きられるかはわからない。その残された人生を、精一杯生きて行こう。ナイルが見守ってくれているから、きっと寂しくない。

 その日からずっと、ジャンのそばには黒いアゲハ蝶が寄り添っていた。


 ◆◆◆


「お前もついにこっちに来ちまったか」
「まあな。結局父さんと同じ歳で逝っちまった。でも本当に、いい人生だったよ。父さんのおかげだ」
「俺のほうこそ、お前のおかげで死ぬまで幸せだったぜ。ありがとな。――二十年以上も一人でいて、寂しくなかったか?」
「ちょっとは寂しかったさ。でもライナーが頻繁に遊びに来てくれたし、マルコやコニーも歳とってから会う機会増えたしな。それに誰かさんもアゲハ蝶になってオレんとこに来てくれたじゃねえか」
「心配だったからな。一人にしておくと、毎日泣いちまうんじゃないかって思ってたから」
「ライナーたちがいなかったら、そうなってたかもな」
「ライナー、ライナーって、浮気かこら。こっそりよろしくやってたんじゃねえだろうな?」
「そんなにライナー連呼してねえよ。それに浮気なんかするかっつーの。オレは死ぬまでずっと父さん一筋だったよ」
「……っ」
「言わせておいて照れてんじゃねえ!」
「別に照れてねえよ! ちょっと暑くなってきたなと思っただけだ」
「嘘つけ」
「……まあ、そういう話はまたあとにすんぞ。それよりジャン、覚悟はできてんだろうな?」
「覚悟?」
「これから一生、俺と一緒にこっちで生きてくんだぞ? 浮気は絶対許さねえし、二度と離してやらないからな」
「そんな覚悟、生きてるときからとっくにできてるよ。オレは父さんを死ぬほど愛してる。それはいままでもこれからも変わらないことだ」
「そっか……。なら、なんも心配はいらねえな。こっちで、二人でもう一回温かい家を作ろう。そんで今度は永遠に幸せになろう」
「ああ。今度こそずっと一緒だ。父さんのそばから離れない。だから父さんもオレのそばを離れんじゃねえぞ」
「そんなの当たり前だっつーの」

 きっと自分は、何度生まれ変わってもこの人に恋をするのだろう。たとえ親子に生まれなくても、広い世界の中からたった一人の彼を見つけ出して、同じように恋に落ちていく。
 愚かな恋だと、周りからは思われるかもしれない。けれど、どんなに高い壁にぶつかろうが、自分が苦しい思いをしようが、最後には二人で幸せになれる。ジャンはそう信じていた。
 差し出されたナイルの手を取ると、懐かしい感触と温もりが手に伝わってくる。そうして二人は、永遠に消えることのない愛に包まれながら、新たな人生へと一歩踏み出すのだった。




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