02. 見えない溝
温かい父の身体が、ジャンからゆっくりと離れた。見上げた父の顔には穏やかな笑みが浮かんでいて、最初に恐そうだと思ったそれが、いまはとても優しそうだと思える。
「お前、ここまで一人で来たのか?」
「そうだよ。電車に乗って来た」
「母さんの許可はもらったのか?」
「ううん。母さんは言ったって絶対駄目って言うから、置手紙だけして出てきた」
「マジかよ……。じゃあ、ちょっと母さんに電話してくるわ。無事に着いたって言っときゃ、あいつも安心するだろうしな。ちょっとここで待ってろよ」
「うん」
そう言い残して、父は受付カウンターの奥へと入っていった。
待っている間、ジャンは交番の中に貼られたポスターなどを眺めながら、いま会ったばかりの父のことを考えていた。
想像していた父親とは姿かたちが全然違うけれど、カッコよくて優しそうな人だ。ジャンの顔はどうやら父親に似たようだから、自分も歳をとればちょうどあんな感じになるのかもしれない。
父に抱きしめられた感覚が、まだジャンの身体に残っている。自分のことを大事に思ってくれているのが伝わってきて、すごく嬉しかった。そう感じると同時に、もっとたくさん抱きしめてほしい、もっとたくさん頭を撫でてほしい、と強く思った。
「ジャン」
ちょうど五分くらいして、父が奥から再び姿を現す。ジャンを呼んだ顔は、どこか浮かない表情をしていた。
「母さんがいまから迎えに来るってよ」
「えっ……」
「本当は俺んちに泊めたかったんだけどな。母さんが、それは絶対駄目って言ってる」
「嫌だ……」
ジャンは父の腰に縋りつく。
「帰りたくない。父さんと一緒にいたい」
「ジャン……」
「それとも、父さんは俺がいたら迷惑?」
「そんなわけないだろう。俺もお前と一緒にいたいよ」
父の大きな手が、またジャンの頭を撫でてくれる。
「じゃあ、二人で母さんにお願いしてみるか」
ニヤリと笑いながら、父はそう提言した。
「でも、ちゃんとジャンから言わないと駄目だぞ。俺から言ったら母さんは絶対に賛成しないから」
「うん、わかった!」
父の仕事はジャンが来てから十五分ほどして終業となった。タイミング的にちょうどよかったようだ。
交番からは歩いて移動する。父の住む家までは十五分ほどかかるらしく、その道のりを毎日歩いて通っているそうだ。
ジャンが何も言わなくても、父はジャンの手を繋いで歩いてくれた。少し照れくさかったが、それ以上に嬉しくて、握ってくれた手をジャンはギュッと握り返す。
「ジャン、学校は楽しいか?」
「楽しいよ! 友達におもしろいやつがいてさ、コニーって言うんだけど――」
歩きながら、父に身の回りで起こったいろんな出来事を話した。終始おもしろそうに聞いてくれる父の様子に、ジャンの口にはますます弾みがつく。それでも全部を話し終える前に家に着いてしまったが、今日ここに泊まるのなら、あとからまだたくさん話ができるから気にしなかった。
「父さんの家、おっきいね!」
「元々母さんとお前も一緒に住んでいたからな。建てて早々売るのも勿体ねえから、そのまま一人で住んでるよ」
「こんな広いところに一人で住んでて、寂しくない?」
父は苦笑する。
「そりゃ寂しいさ。でも、今日はジャンがいるから寂しくない」
ニッと笑ってみせる父にジャンも笑い返して、二人一緒に家の中に入る。
玄関を通ってすぐ右手にあるドアを抜けると、リビング・ダイニングらしきスペースが広がっていた。ジャンの住むアパートのリビングの三倍近い広さがありそうだ。壁掛けのテレビもサイズが大きく、すごいなあとジャンはしばらく見惚れていた。
「お前の部屋もあるんだぞ」
「ホント!?」
「ああ。つっても、今は何もないけどな。それでも見てみるか?」
「うん!」
そうして今度は二階に上がり、ジャンの部屋になる予定だったスペースに案内してもらう。さっき言われたとおり、確かに中には何もなかったが、アパートにある自分の部屋よりも少し広い空間に、夢が広がる。ベッドはあの角のところに置いて、それから大きな本棚をあの辺りに置いて、と、実際にここに住んでいたらどんな部屋にしていたか、シミュレーションせずにはいられなかった。その最中にあることに気づいて、ジャンはドアの前に立った父を振り返る。
「父さん、この部屋って全然使ってないんだよね?」
「そうだぞ」
「それでも、掃除はしてるんだよね? なんか床綺麗だし」
まったく使っていないのなら、もっと埃っぽくなるものではないだろうか? けれど床も窓もすごく綺麗で、きちんと掃除がなされているのだとジャンは気づいたのだ。
「ああ、まあ、そうだな。お前がいつかふらっと帰って来るんじゃないかと思って、時々掃除してた。でもまさか、本当に帰って来るとはな」
「嬉しい?」
「当たり前だろう。お前は俺の息子なんだからな」
父がこちらに近づいてきて、逞しい腕に身体を引き寄せられる。すっぽりと腕の中に納まったジャンは、その温かい身体に頬をすり寄せた。
「一緒に住みたかったな……」
まるで独り言のように呟いた父の顔を、ジャンは見上げる。
「じゃあいまから一緒に住もうよ! そしたら父さんもオレも寂しくない」
「はは、そうだな。でも、ジャンとは一緒に住みたいけど、母さんはな……いや、なんでもねえや。それよりジャン、父さんの部屋も見てみるか? 漫画もたくさんあるんだぞ」
「見たい!」
漫画という単語に心が引き寄せられて、父の意味深な呟きなど一瞬でジャンの頭の中から消えていった。
案内された父の部屋には、さっき言ったとおり大きな本棚にたくさんの漫画などが並んでいたが、それよりもジャンの目を惹いたのは、棚に飾られたトロフィーやメダルの数々だった。
「父さん、バレーやってたの?」
近づいて見てみれば、それはどれもバレーボールの功績を称えるものばかりで、ジャンは興奮しながら父に訊ねる。
「そうだぞ。今も町内会のチームでやってるんだけどな」
「オレもスポ少でバレーやってんだよ!」
「そうなのか!? やっぱ親子だな、俺とお前は」
父は嬉しそうに笑う。ジャンも父との共通点を見つけられて、すごく嬉しい気持ちになった。
「そうだ。ボールあるからパスだけでもやってみるか?」
「やる!」
父の提言に、ジャンは元気よく返事をした。
そうして再び家の外に出ると、父が持ってきたボールで簡単なパスをする。
ジャンは約二年前からバレーを始め、低学年ながらも所属するチームではレギュラーメンバーに選出されている。まだ前衛を任されるほどの実力と身長はついていないが、パスの正確さではチームの中の誰にも負けないと、自信を持っていた。
しかし、そんなジャンの自信を揺らがせるほどに、父のパスの精度はすごかった。ジャンがどんなにぶれたパスを放っても、父は正確にジャンの正面へとボールを返してくる。おかげでジャンは足をほとんど動かさずに済んでいた。
「父さん上手いね!」
「大人になればこんくらい普通だよ。ジャンももうちょい続ければもっと上手くなれると思うぞ」
「そうかな?」
「ああ。だから絶対途中でやめんなよ」
「うん、絶対やめない。大人になったら父さんと同じチームでバレーやる」
「ははっ、そりゃ楽しみだな」
父と一緒にボール遊びをする。それは幼い頃からのジャンの夢だった。友達たちが当たり前のようにやっているその光景を目にして、何度羨ましいと思ったことだろう。
でもその夢を、いま叶えることができた。実際に体験してみると、想像していた以上に楽しくて、ジャンは時間も忘れてただひたすらにボールを父に打ち返した。
しかし、楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、始めてからずいぶんと経った頃に、見覚えのある車が家の前に停まるのが目に入った。
「母さん……」
それは、毎日目にする母の車だ。まるで夢の世界から急速に現実世界へと戻されたようだと、ジャンは割り込んできた母の存在に内心で少し腹を立てた。
「ジャン、一人でこんなところに来るなんて、危ないでしょう!」
車から降りてきた母の顔はかなり怒っていた。怒られるだけのことをしたのだという自覚はあるが、ジャンは反省する気などまったくない。そもそも父の所在を隠し、会わせてくれなかったのは母だ。時々でも会わせてくれれば一人でこんなところまで来たりしなかったし、そもそも離婚なんてしなければ――とも思ったが、子どもながらにそれは触れてはいけない部分だとなんとなく察して、口に出したりはしなかった。
「誘拐でもされたらどうするの! それにこの辺りは歩道がないところもあるから、危ないでしょ!」
「そんなに怒ってやるなよ、マリー。ジャンはしっかりしてるみてえだから大丈夫だ」
怒る母を父が宥めようとするが、そんな父に母は睨むような目つきをする。
「ナイルに何がわかるのよ。ずっとジャンとは離れていたでしょ」
「ちゃんと一人で電車に乗って、ここまで来られただろう。それに俺の家の場所だって、ちゃんと交番で丁寧に訊いてきた。十分しっかりしてるって言えるだろう」
「結果的にそうだったってだけ。危なかったことには変わりないわ」
「そうだが……」
父は言葉を詰まらせる。
ジャンが何か悪いことをして叱られるとき、いつもの母ならただジャンを責めるのではなく、なぜそういうことをしたのかちゃんと理由を訊ね、その上でなぜそういうことをしてはならないのかを説いてくれる。ジャンは子どもながらにそれが母の優しさだとわかっていたし、だからこそ叱られても母のことを嫌いになることはなかった。
けれどいまの母は少し嫌だ。父の言葉をすべて否定し、いつものようにジャンに理由を訊ねたりもしない。ジャンと父を一方的に悪者にしているようだった。
「オレは帰らない」
言葉を詰まらせた父の代わりに、ジャンが自分の本心を母に伝える。
「父さんと一緒にいたい。だから今日はここに泊まる」
「そんなの許しません! こんなろくでもない人と一緒なんて、危ないわ」
「父さんのこと悪く言うな! 父さんは優しくて、おもしろい人だ!」
父の悪口めいたことを言われて、ジャンは腹が立った。たったの二時間程度しか一緒にいなかったが、それでも父の優しさや温かさを身に沌みるほどに感じたからだ。
「マリー、ジャンがここまで言ってるんだ。今日くらいここに留めてもいいだろう? それに俺もたまにはこいつと一緒にいたい」
「駄目よ。ジャンが何されるかわかったものじゃないわ」
「ジャンをいくつだと思ってるんだよ。それにこいつは俺の実の息子だ。息子に手を出すわけないだろう。そもそもお前と付き合い始めたときから、俺はお前を裏切るようなことは何もしてない。お前が俺の性癖を一方的に否定しただけだ」
父がなんのことを言っているのかジャンにはわからなかったが、それが離婚の原因に繋がることだというのはなんとなくわかった。
今度は母が言葉を詰まらせる。目つきは相変わらず鋭いままだが、何か迷うように視線を彷徨わせ、そして最後にそれを閉じる。
「……わかったわ。好きにすればいいじやない。その代わり、ちゃんと明日の夕方までにはうちまでジャンを送ってください」
「ああ、約束する」
父のその言葉を聞いても、母の表情は冴えないままだった。けれど諦めたように息を吐くと、身を翻して車のほうへと歩き出す。発進するまでの間、こちらを振り返ることは一度もなかった。
「お前の母さん、いつもあんな感じなのか?」
母の車が見えなくなった頃に、父が静かに訊ねてくる。
「いつもはもっと優しいよ」
「そっか。ならいいんだ。でもこれで今日と明日は一緒にいられるな」
「うん!」
母の台詞でいくつか気になることもあったのだが、いまから明日まで父と一緒にいられるという喜びが、一瞬でその疑問を押し流していった。
寝るまではまだ時間があるし、明日も帰るまではたくさん時間がある。まだまだこの温かい存在に触れていられるのだと思うと、他のことはどうでもよくなった。
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