03. 父との日常


 九歳になった頃から、ジャンは母と一緒に風呂に入ることが恥ずかしいと思うようになっていた。その気持ちは同性の父が相手でも変わらないようで、脱衣室に一緒に入ったはいいが、なかなか服を脱げずに一人そわそわする。
 それに対して、父はなんの躊躇もなさそうに着ているものをぱぱっと脱いでいき、あっという間に全裸になっていた。それを見ていると恥ずかしがっている自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思えてきて、父を真似るようにジャンもぱぱっと脱衣する。

「そういえば、お前の着替えがなかったな。あとで買いに行かねえと……」

 父が棚からバスタオルを出しながら、一人そうぼやく。
 大人の男の裸を見るのは初めてだ。平らなジャンの身体と違い、父の身体は筋肉の凹凸がはっきりとしている。股間にぶら下がるモノもずっしりという言葉が似合いそうなほどに存在感があり、その上には深い茂みが蓄えられていた。

「ジャンももう少ししたら生えてくるかもな」

 ジャンの視線に気づいたらしい父が、笑いながら言った。

「ええ、嫌だな……」
「別に嫌がることはねえよ。むしろ胸張っていいんだぞ? 大人に近づいた証しだからな」
「そうなの?」
「ああ。もしもそれで馬鹿にしてくるやつがいたら、お前はまだガキだなって言い返してやれ」
「うん、わかった!」

 そんなやり取りをしてから浴室に入り、ジャンは父とお互いの身体を洗い合った。二の腕の筋肉も、六つに割れた腹筋も、想像していたよりずっと硬かった。いつか自分もこんな身体になりたいなと、父の身体を洗いながらそう思った。
 風呂から上がると、入る前に父が予告していたとおり、近くの服屋にジャンの着替えを買いに行く。必要なのは今夜の寝間着と下着、それから明日の日中に着る服とズボンだ。ちなみに服屋に行くまでは父の服を借りたのだが、もちろんジャンには大きすぎて不恰好になってしまった。
 それから帰り道にあるファミレスに寄って、大好きなオムレツセットを堪能し、心もお腹も満たされた状態で帰路につく。

「父さん、服とごはんありがとう」
「そんなのわざわざ礼を言うようなことじゃねえよ。俺はお前の父親なんだ。もっと甘えてくれたっていいんだぞ?」
「うん!」

 ジャンは父の身体に抱きつく。こうして身体をくっつけることは、母とはしたいと思わないのに、父には何度もしたくなる。それがいままで離れていた分の寂しさを埋めたいがためなのか、それとも単に男同士だからなのかは、ジャンにはわからない。わからないが、どちらでもいい。父はジャンが抱きつくのを拒まないし、むしろ優しく抱きしめ返してくれる。ジャンにはそれだけでよかった。

「オレ、父さん大好き!」
「俺もジャンが大好きだぞ」

 そのままジャンはずっと父にくっついていた。テレビを観るときも父の膝の上に座り、ベッドで漫画を読むときも、隣に横たわった父の身体に背中をぴったりとくっつけていた。
 そうしているうちに段々と眠くなってきて、読んでいた漫画が手から零れ落ちる。

「眠くなったか?」

 ううん、とジャンは首を横に振ったが、眠気は確実にジャンの意識を蝕んでいく。

「無理そんなよ。明日また一緒に遊べるんだ。早起きするために、早く寝ちまえ」
「……じゃあギュってして」
「ああ」

 父は向き合う形で身体を寄せてきて、腕枕するような形でジャンを抱きしめる。暑がりの父は、寝るときはいつも上半身裸らしく、温かい肌の感触がジャンの顔に直に伝わってくる。適度にクーラーの効いた部屋ではそれが心地よく感じられ、十秒もしないうちにジャンは眠りの世界に落ちるのだった。



 何の音もしない、静かな朝だった。
 自分を包んでいたはずの温もりは、ジャンのそばから消えていた。不安になって、駆け足で一階のリビングに下りると、食欲をそそるバターの匂いがジャンの鼻につく。奥のキッチンを見ると、裸の上半身に黒いエプロンを着けた父が、フライパンでベーコンを焼いているところだった。

「起きたか、ジャン」

 ジャンの顔を見るなり、父は優しそうな笑みを浮かべる。

「いま朝飯作ってっから、顔洗って来いよ」
「うん」

 そう返事をしながらも、ジャンは洗面所ではなく父のほうへと歩いていく。「どうしたんだよ?」と訊いてくる父に答えは返さず、後ろからそっと抱きついた。

「起きたらいないから、どこか遠くへ行っちゃったのかと思った」
「馬鹿、俺がジャンを置いてどっか行ったりするわけないだろう? いままでどんだけ会いたかったと思ってんだ」

 料理の最中のため、父は抱きしめ返してはくれなかったが、それでもジャンはしばらくの間父から離れることはしなかった。きっと父は動きづらくて堪らなかっただろうけど、そんなジャンに「可愛いな」と笑うだけで、引き剥がそうとはしない。だから料理が終わるまでずっとそのままの状態だった。

「おら、顔洗いに行くぞ」

 エプロンを脱いだ父が、ジャンを抱きかかえて洗面所に向かう。やっと相手をしてくれたのが嬉しくて頬をすり寄せると、ジョリジョリの髭が少し痛かった。
 顔を洗って、父の作ってくれた朝食を二人で向かい合って食べる。マーガリンを塗った食パンに、卵焼きと焼いたベーコン、それと小さなサラダが食卓に並ぶ。どれもとても美味しくて、ジャンはそれらをあっという間に平らげた。

「ジャン、ちょっと休憩したら川に行くぞ」

 歯磨きを終え、リビングのテレビでアニメを観ていると、隣に座った父がそう提言する。

「川? 釣りでもするの?」
「いや、泳ぐんだよ。梅雨なのにこんなに天気もいいし」
「でも川は危ないって学校の先生が言ってた」

 ジャンのアパートの近くの川は、どのエリアも遊泳禁止になっている。毎年夏になるたびに担任の先生がしつこく忠告していたから、その決まりはジャンもよく覚えていた。

「この辺は流れもゆっくりだし、深さも大したことないから大丈夫だ」
「でも、オレ水着持ってない」
「んなのパンツ一枚で平気だろ。それとも帰るまでここでじっとしてるか?」
「嫌だ! 泳ぎたい!」
「よし。じゃあ決まりだな」



 父の言っていたように、梅雨の真っただ中というのが嘘のように、頭上には綺麗な青空が広がっていた。そんな空を眺めながら歩いているうちに川に着いて、ジャンたちは川原で服を脱ぎ捨てる。
 キラキラと光る川の水に手を浸けると、想像していたよりもずっと冷たくて、泳ぎに入るのが億劫になってしまう。

「おら」

 迷っていると、横から父に水をかけられた。冷たさに驚いて飛び上がり、それを見て父が笑う。なんだかそれが悔しくて、ジャンも水をかけ返した。
 それから少し深いところまで行って、父が用意した浮き輪に身体を乗せた。父は浮き輪の外側からジャンを抱きしめるような形で捕まり、緩やかな流れに身を任せる。

「冷たいけど、気持ちいいな〜」
「うん、気持ちいい」

 まだ午前だから気温はそれほど高いわけではないが、それでも照りつける陽射しは厳しい暑さを感じさせる。その暑さと水の冷たさがちょうどよくて、眠くなりそうなほどに心地よい。

「オレ、ここに住みたい」

 ジャンの住む街も決して悪くはないが、静かなこの町で、溢れる自然とともに生きていくのもおもしろそうだと思った。それに何よりここには父がいる。母も好きだが、正直に言うと父のほうが好きだ。だから一緒にいたい。

「それは、母さんが認めないだろうな」

 けれど父はやはり、母を理由にジャンの願いを拒否した。

「どうして父さんと母さんは離婚したの?」

 子どもながらに空気を読んで、いままで一度も父には訊かなかった、離婚の理由。我慢できずに口から零れて、けれど「しまった」とは思わなかった。自分だけがそれを知らないのは、なんだかちょっと寂しいと感じたからだ。

「すまん。いまは言えない。お前がもっとデカくなって、世の中のいろんなことがわかるようになったら、ちゃんと話す」

 後ろを振り返ると、父は少し悲しそうに笑った。だからこれ以上は無理に訊いてはいけないのだと察して、ジャンは口を噤んだ。

「けどまあ、ジャンがデカくなったら一緒に住むこともできるかもな」

 沈みかけていたジャンの心が、その一言でまた歓喜に満ちる。

「本当!?」
「たぶんな。デカくなったら、お前も母さんの手を離れられる。そしたらお前の思うように生きられるからな。ま、そんときになっても俺と住みたいってお前が思ってたらの話だけど」
「絶対思ってるよ! だってオレ、父さんのこと大好きだもん!」
「俺もジャンが大好きだぞ」

 昨日から何度も口にした台詞を伝えると、父がまたジャンをきつく抱きしめてくる。頬が密着し、ジョリジョリとした髭の感触がした。そしてすぐにそれが離れたかと思うと、今度は父の唇が柔らかく頬に触れる。だからジャンもお返しにと、父の鼻頭にキスをした。

「なんでこんなに、可愛いんだろうな」

 ガシガシとジャンの頭を撫でながら、父が少し震えた声でそう言う。閉じられた父の瞳の端から流れ落ちたものが、涙なのかそれとも川の水なのかは、ジャンにはわからなかった。




続く





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