04. 少しの別れ


 父と過ごす休日は、あっという間に時間が経ってしまう。川で遊んで、また庭でバレーをして、気づけば時刻は夕方に差しかかっていた。そろそろアパートに帰らばければならない。

「忘れ物はないか?」

 帰り支度が整い、リビングを出ようとしたところで、父が訊いてくる。

「ないよ。服もちゃんと入れたし、お財布もある」
「そっか。じゃあ出発すっか」

 帰りたくない。もっと父と一緒にいたい。内心では強くそう思っていたけれど、口に出したりはしなかった。そうすると父が困ってしまうとわかっているからだ。
 車に乗り込み、父の家がゆっくりと離れていく。バレーをして、一緒に風呂に入って、一緒に眠って……父と過ごした二日を思い出しながら、ジャンは寂しい気持ちにかられた。
 肘掛けに乗った父の手を握ると、「どうした?」と訊きながらそれを握り返してくれる。
 大丈夫だ。また絶対に来られる。もしも母に駄目と言われても、昨日みたいに一人で電車に乗ってくればいいだけだ。お互い元気でいれば、また会える。ジャンはそう信じることにした。



「――ジャン、起きろよ」

 父の呼ぶ声がして、ジャンは唐突に目を覚ます。どうやら車に揺られているうちに眠ってしまっていたらしい。窓の外を確認すると、アパートの近くの慣れ親しんだ景色が広がっていて、もう着いてしまったのかと落胆する。

「着いちまったな……」

 そう呟いた父の声は、すごく寂しそうだった。

「でも、これが最後ってわけじゃない。また絶対会えるさ」
「本当?」
「ああ。お互いがお互いのこと好きなら、絶対会える」

 父がそう言うのなら、本当に会えるのだろう。父さんは絶対嘘をつかない人だと、たった二日しか一緒にいなかったけれど、それだけはわかる。

「よし、お前んちに行くか」
「うん」

 車から降りると、陽射しを吸収したアスファルトからの熱がじわじわと伝わってきた。父の家からそう遠くないはずなのに、ずいぶんと気温差があるように感じられる。
 アパートまでの道のりを歩くのも、ジャンは父と手を繋いでいた。今日はもう少しでお別れだ。それまでにこの感触をしっかりと覚えておかなければならない。

「――ジャン!」

 後ろから声をかけられたのは、よく遊んでいる公園の前に差し掛かったときだ。聞き覚えのあるそれに振り返ると、友達のマルコとコニーが手を振りながら走ってきていた。

「やっぱりジャンだ! さっきジャンの家に、遊びの誘いに行ったんだよ」

 頬にそばかすの目立つマルコが、いつもの柔らかな笑みを浮かべながらそう言う。

「なあ、その人誰だ〜? ジャンの知り合い? ひょっとしてヤクザ屋さんか?」

 坊主頭のコニーが、ジャンの隣の父を見上げながら訊いてくる。

「オレの父さんだよ! ヤクザじゃなくて、おまわりさんだ!」
「ジャンのお父さん!? すごくカッコいい人だね!」

 父を褒められるのは、まるで自分が褒められたような気がしてすごく嬉しかった。
 マルコにもコニーにも、ジャンは自分の家庭の事情を話してある。コニーは離婚という言葉にいまいちピンときていないようだったが、物わかりのいいマルコは事情を理解した上で、「お父さんがいない分、僕がジャンを楽しませてあげる!」と、事あるごとにジャンを遊びに誘ってくれるいいやつだ。

「父さん、この二人が昨日話したマルコとコニーだよ」
「そうなのか。いつもジャンと仲良くしてくれてありがとな」

 マルコもコニーも、初めて見るジャンの父に興味津々だった。コニーなんか、「拳銃見せてくれよ」などと無理なお願いをしては、父を困らせた。マルコは父の顔とジャンの顔を交互に見たあと、ジャンの耳元で「ジャンはお父さんに似たんだね」と囁いた。

「ジャン、俺はちょっと母さんと大事な話してくるから、二人と遊んでいてくれよ」
「黙って帰ったりしない?」
「しねえよ。ちゃんと声かけるから安心しろ」
「うん、わかった」

 アパートに向かっていく父の背中を見送って、ジャンは言われたとおりにマルコたちと公園で遊ぶことにした。
 この二人と遊ぶときは、だいたいバレーをすることが多い。マルコとコニーもジャンと同じバレーボールのスポーツ少年団に所属しており、三人ともバレーが好きだからだ。
 三人でパスをしながら、ジャンは父がバレーの経験者で、とても上手いことを二人に話してあげた。両親ともにバレー経験者ではない二人は、かなり羨ましがった。けれどジャンからすると、毎日父親と一緒にいられる二人のほうが羨ましかったが、そんな内心は億尾にも出さず、自慢するように父と過ごした二日間を語ったのだった。

 三十分ほど経った頃だろうか。アパートの敷地から出てくる父の姿を見つけて、ジャンは慌てて駆け寄った。

「父さん!」

 呼びかけると、父はにやりと意味ありそうに微笑む。

「ジャン、いい報せがあるぞ」
「何々?」

 ジャンが訊いても、父はすぐには答えを教えてくれなかった。「へへっ」と意地悪な笑みを浮かべ、言葉を溜めに溜める。それがもどかしくて「早くー」と急かすと、いきなり身体を抱き上げられた。

「母さんがな、月に一度はジャンを俺んちに遊びに行かせていいってよ!」
「本当!? やったー!」

 子どもながらに現実主義なところのあるジャンは、母は絶対に二度と父の元へは行かせてくれないと思っていた。何をどう話してそういうことになったのかは知らないが、これからもあの家に行って、父と一緒に過ごせるとわかって、嬉しくなると同時に安心する。

「そん代わり、ジャンがちゃんとバレーも勉強も頑張ったらって話だ」
「オレ、両方ともちゃんと頑張るよ!」

 ジャンはマルコとコニーの目があるのも気にせず、父に頬ずりする。最初は痛いだけだった髭の感触も、なんだか段々と愛着が湧いてきた。

「そうだ、父さん。帰る前に一緒にバレーしようよ! マルコとコニーもいるからさ!」
「ああ、いいぞ」

 そうして今度は、四人でバレーを楽しんだ。少しだけパスの続きをすると、最後は地面にラインを引いて、ネットのない簡易的なコートで二対二のゲームをプレイする。もちろんジャンは父と同じチームだ。
 マルコもコニーも、やっぱり父の上手さには驚いていた。ジャンたちのスポ少のコーチでさえも、こんなには上手くないだろう。

「じゃあね、ジャン。お父さんも、ありがとうございました」
「またバレーしような!」

 一時間ほど遊んだところで、マルコとコニーの二人と別れる。父もそろそろ帰らなければと、携帯を見ながら呟いた。

「本当に帰っちゃうの?」
「ああ。帰って飯の支度とかしねえといけねえしな」
「食べて帰ればいいのに」
「それはまた今度な。母さんもいることだし、今日は大人しく帰るよ」

 ジャンは父の腰に抱き着いた。少し汗の匂いがするが、不快だとは思わない。むしろ父の匂いを覚えておこうと、深呼吸するように大きく息を吸い込む。
 父の手がジャンの頭に触れ、優しく撫でる。触れられるたび、大きな手のひらだなと思った。大きくて、優しくて、温かい。ずっと触れていてほしいと、撫でられながら強く思う。
 けれどジャンの思いも虚しく、父の手はふっと離れた。途端に寂しさが込み上げてきて、目頭がじんと熱くなる。

「ジャン。来月初めの土曜の夕方、絶対迎えに来るからな。それまでいい子にしてるんだぞ」
「うん。ちゃんといい子にして待ってるよ。だから絶対来てね」
「宿題終わらせとくんだぞ? それから今度は一応水着も持って来い。また川で一緒に泳ぐからな」
「うん。ちゃんと準備しとくっ……」

 父の顔がぐにゃりと歪んで、温かいものが頬を流れ落ちる感触がした。自分が泣いているのだと気がついて、目を擦ってそれを止めようと試みるが、駄目だった。雨粒のごとく瞳から溢れては地面を濡らしていく。

「父さんっ……帰らないでよ……」
「泣くなよ、ジャン。お前が泣いたら、俺まで泣きたくなるだろうが」

 そう言いながら、父はジャンの身体を強く抱きしめてくれた。浸み込んでくる温かさに、ジャンは更に泣いた。

「父さんっ、寂しいよ……」
「一か月の辛抱だ。俺も我慢すっから、ジャンも我慢しろ。次会ったらまたバレーして、いろんなとこに出かけて、いっぱい楽しいことをしような」
「うん……」

 会いに行ってよかった。父と会うことを諦めなくて、よかった。だって、こんなにも大好きになれたのだから。きっとこれからもその気持ちは変わらないのだろう。変わらないどころか、もっと大きくなるのかもしれない。
 父の大きな身体がジャンの身体から離れていく。自分を包み込んでくれるものが急になくなり、なんだか少し寒くなったような感覚に捉われる。
 またな、と父が笑顔で手を振った。だからジャンも精いっぱいの笑顔を浮かべて、元気よく手を振った。
 父の車が駐車場を出て、段々と遠くなっていく。それが完全に見えなくなっても、ジャンはしばらくそこに佇んでいた。




続く





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