07. 一つの誓い


 電車を降りると、そこには相変わらず静かな町並みが広がっている。たった数ヶ月来なかっただけなのに、もう何年もこの景色を見ていなかったような気持ちになった。
 ジャンは一応駅前の交番に顔を出し、ナイルがいないか確認する。ちょうどここによく来ていた頃に顔馴染みになった警官が、ナイルは帰宅したと教えてくれた。
 交番から歩いて十五分、久しぶりに父の家の玄関に立つ。
 さっきから心臓の音がうるさい。久々に会える嬉しさと、自分の気持ちがちゃんと制御できるかどうか不安で、ドキドキしている。
 インターホンを押すと、中からドタバタと足音が聞こえ、ついで鍵が解錠される歯切れのいい音がした。開いたドアから、ジャンが愛してやまない父が顔を覗かせる。

「ジャン!?」
「よう」

 ナイルはひどく驚いたような表情をしたあと、徐々にその顔を綻ばせていく。

「しばらく見ないうちに、少しデカくなったな」
「ああ。ちょっと身長伸びたからな。すぐに父さんに追いつくぜ」
「俺に追いつくにはまだまだだな。まあ、とりあえず中に入れよ」

 微笑むナイルの顔は、どこかやつれたような印象を受けた。髭も前ほど整っていないし、ずいぶんと不健康そうな見た目になった気がする。やっぱり母の再婚に関して、何か思うことがあったのだろうか?
 広いリビングは少しだけ散らかっていたが、汚いと言うほどではない。たぶんいままでジャンが来る日は、あらかじめ掃除をしてあったのだろう。

「父さん」

 ジャンは荷物を床に置くと、いつもしていたみたいに、ナイルの胸に飛び込んだ。ただ勢いがつきすぎてしまったようで、そのまま二人してソファに倒れこんでしまう。
 バランスを崩しながらも、ナイルはしっかりとジャンのことを抱き留めてくれていた。大きな手が髪に触れ、いつもみたいに優しく撫でてくれる。それがジャンにはひどく嬉しく感じられた。

「もう来てくれねえのかと思った」

 ゆっくりと身体を起こしながら、ナイルが静かに呟いた。

「そんなわけねえだろ。部活が忙しくて、行きたくても行けなかったんだ」

 それだけが理由のすべてではないが、本心はいま伝えるべきではないだろう。

「父さん、オレが来なくて寂しかった?」
「当たり前だろう。どんだけ会いたかったと思ってんだ」

 その言葉が嘘でないと、抱きしめる腕の力が物語っている。じんわりと温もりが心と身体の中に沁み込んできて、ジャンは思わず泣きそうになった。

「オレも寂しかった。父さんにこうやって抱きしめてほしくて堪らなかったんだぜ」
「お前は本当に甘ちゃんだな。でも、そういうところが可愛くて俺は好きだ」

 ナイルの言う「好き」は、きっと親子の範疇の好きなのだろうけれど、それでも言われて胸が躍った。
 それからしばらくの間、互いの存在を確かめ合うように抱き合ったままでいた。黒い髪の毛に鼻を押し当てると、ナイルの匂いがする。それすらもずいぶんと懐かしく感じられた。

「マリー、再婚したんだってな」

 あえて触れなかった話題を、ナイルのほうから切り出してきた。ジャンは曖昧に頷いて、なんとなくナイルの顔を見るのが辛くなる。

「新しい家族はどうだ? 上手くやってんのか?」
「弟は可愛いよ。女みたいな顔してるけど、根は男らしいんだ。それに素直でいいやつだし、仲良くやってるよ。エルヴィンさんは……まあ、普通だな。悪い人じゃねえけど」

 本当はこんなこと、聞きたくないじゃないだろうか? それでも何も答えないのは不自然だと思って、いまの家庭事情を少し話した。

「お前、新しい父親のこと名前で呼んでんのか?」
「ああ。だって本当の父親じゃねえし……」
「そりゃあ、いきなりは無理だろうな」
「いきなりとか、そういう問題じゃねえよ。たぶん何年経ってもエルヴィンさんのことを父さんなんて呼べないし、呼ぶ気もない」

 エルヴィンのほうも、ジャンに名前で呼ばれるのはさして気にしていないようだった。もしかしたら内心では父と呼んでほしいと思っているのかもしれないが、どちらにしてもジャンは名前呼びをやめるつもりはない。

「それは、エルヴィンさんが可哀想だろ」

 ナイルは真剣な眼差しをジャンに向ける。

「一応家族になったんだから、いつかちゃんと父さんって呼んでやれよ。弟はマリーのこと、母さんって呼んでるんだろ?」
「……ああ」
「だったらお前もちゃんと父さんって呼んでやれ。でないと家族がギクシャクしてくんぞ」
「……父さんはそれでいのかよ?」

 少しやつれたナイルの顔を、ジャンは睨むように見返した。

「父さんは、オレが他のやつを父さんって呼んでもいいのかよ? さっきオレに会えなくて寂しいって言ったじゃねえかっ。もしオレとエルヴィンさんが上手くいって、父さんには会いに来なくなったら、もっと寂しいんじゃねえのかよ!」
「……寂しいに決まってんだろ。けど、そういうのは嫌でも受け入れなきゃいけないもんだろ」

 投げやりな言い方に、ジャンは無性に腹が立った。ナイルとはもっと深い愛情で繋がっていると思っていたのに、そう思っていたのは自分だけだったらしい。再会したときに泣いたくせに、いつも抱きしたり、頭を撫でてくれたりしたくせに、所詮そうやって簡単に諦めきれるほどの感情だったのかと思うと、ひどく虚しかった。
 もしもこれが逆の立場だったら、ジャンはどんなことをしてもナイルをそばに置いただろう。たとえそれが犯罪なのだとしても、どこの馬の骨とも知らぬ男にナイルを渡したくない。

「オレのこと、嫌いなのか?」
「んなわけないだろ! 好きじゃなかったらここに泊めたりしないし、遊びにだって連れて行かなかった。ジャンが大好きだから、本当は毎日だって会いたかった」
「だったらもっとオレのこと欲しがれよ! エルヴィンさんのこと絶対に父さんって呼ぶなって言えよ! なんでそんなに簡単に諦めちまうんだ!」

 自分を抱きしめる腕を、そのまま解かなければいい。ずっと腕の中に閉じ込めて、どこにも行けないようにすればいい。ジャンはそれを拒まないし、むしろそのほうが自分の心は満たされるのだろうと、本気で思う。

「……俺はてっきり、ジャンは新しい父親とすぐに打ち解け合って、だから春先からこっちには来なくなったんだと思ってた。部活が忙しいってのも、あくまでこじつけでな」

 言いながらナイルは、ジャンの頬にそっと触れる。

「ジャンが他のやつのこと、父さんって呼んでるのかもしれねえって考えると、すげえ寂しかったし、家まで行ってお前をどっかに連れ去っちまうかとも思ったよ。けど、お前が新しい家族との生活を幸せに感じてる可能性だってある。それならその幸せを壊しちゃいけねえと思って、何もできなかった」

 ナイルの辛そうな声に、ジャンはドキリとする。それはすぐに嬉しさに変わって、ジャンの全身を駆け巡った。ナイルも同じようにジャンのことを考えてくれていた。そんなことずっと前からわかっていたはずなのに、さっきはどうして疑ってしまったのだろう。勝手に腹を立てた自分が、なんだか恥ずかしい。

「お前は俺の子どもなのにな。ちゃんと血も繋がってるし、生まれて抱き上げたとき、一生大事にしようって心に決めてたのにな。なんで他のやつに盗られなきゃいけねえんだよ……」
「盗られたりなんかしねえよ。そりゃ、形の上では他のやつの子どもになっちまうかもしれねえけどさ。でも、オレにとってはいま目の前にいるのが本当の父さんなんだよ。何があってもそれは変わらねえし、父さんが嫌って言っても、ずっと父さんって呼んで甘えるからな」

 ナイルの顔が苦しそうに歪んだ。人差し指と親指で目頭を押さえたかと思うと、閉じられた瞳から涙が溢れ出す。
 ジャンもなぜだか泣きたくなって、涙を流しながらナイルの頭を自分の小さな腕の中に包み込んだ。するとナイルは子どものように声を上げながら泣き始めた。ジャンの背中に強くしがみついて、肩を細かく震わせる。大人でもこんなふうに泣くのだと、ジャンはそのとき初めて知った。
 いつも大きくて温かいと思っていた父が、いまはこんなにも小さく感じられる。自分が守っていかなければ。腕の中で震える頭を撫でながら、誰ともなく心の中でそう誓うのだった。



 久しぶりにナイルと一緒に風呂に入って、夕食を食べて、同じベッドで眠りに就く。
 ベッドに入るなり、ジャンはナイルにきつく抱きしめられて、額や頬にたくさんキスをされた。ナイルにしてみればただの愛情表現なのだろうが、ジャンはなんだかいやらしいことをされている気分になって、股間が段々と熱くなってくる。

「おいジャン、いま勃起してるだろ?」
「してねえし!」
「嘘つけ。硬いのが俺の太ももに当たってんだよ」

 このエロガキ、と言いながらナイルはまたキスをしてきた。
 幸せだ、とジャンは漠然と思った。しばらく彼と離れていたせいもあって、余計にそう感じられる。
 自分の恋愛感情を抑えるのは大変かもしれない。けれど、それを抑えるためにナイルと会わないという選択肢は、ジャンの中にはもうなかった。離れたくない。ずっとそばにいたい。自分のたった一人の父親であり、世界で一番大好きな人に、こうやって抱きしめられたままでいたいと切に願うのだった。




続く





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