09.離婚の真実


 夏休み直前。ジャンは自分の希望する進路について、母より先にエルヴィンに話しておいた。進学したらナイルの家に下宿したいという旨も伝えたが、彼は嫌とは言わなかったし、渋い顔もしなかった。
 ジャンのいまの父親は一応エルヴィンだ。だからもしかしたら心の中では、ジャンがナイルの家に行くことに関して何か思うところがあるのかもしれないが、それを口に出さない辺り、本当にいい人だなとジャンは思う。
 エルヴィンは、彼の実の息子であるアルミンと、再婚相手の連れ子であるジャンを差別したりしなかった。ジャンの身の回りの人や出来事にちゃんと興味を持ってくれているし、部活の試合だって応援に来てくれる。そんないい人でも、やはり父と呼ぶことはできなかった。ジャンにとっての父親はやはりナイルの他にいない。
 エルヴィンのほうは問題なく話が済んだが、問題は母のほうだ。理由はわからないが、離婚して十数年経ったいまも、母はナイルのことをよく思っていないようだった。ジャンが初めてナイルに家に行ったときだって、ナイルから連絡を受けるとすぐに連れ戻しに来たし、彼に冷たい言葉を投げかけていた。事が上手く運べるようにはとても思えない。
 けれど諦めるつもりなどジャンにはなかった。いまの家族に不満はないが、ナイルのそばにいることが、ジャンにとっての一番の幸せだ。
 リビングに行くと、母はちょうど一人で雑誌を読んでいるところだった。進路の話をしたいというと、母は雑誌を置いてジャンの分のお茶を用意してくれる。

「オレ、山高に行きたい」

 そう言うと、母はやっぱりね、と笑う。

「たぶん山高だろうなって思ってたわ。だってジャン、すごくバレーが好きなんだもの。小学校の頃からずっと頑張って来たものね」

 山高はナイルの母校のはずだが、母はそれに関しては何も言わなかった。教育熱心というわけでもないし、ジャンが山高に進学することについては歓迎してくれそうだ。

「でも、通学は平気? ここからだと一時間半くらいかかるでしょう? 確か寮もなかったはずだし」
「そのことなんだけど……オレ、父さんとこに下宿させてもらおうと思うんだ」

 次の瞬間、リビングを取り巻く空気が、音でも鳴りそうなほどに急激に変化した。それはまるで突然北極にでも落とされたかのような、あるいはマグマの上に吊るされたかのような、そんな極端な変化をジャンは感じ取っていた。
 恐る恐る視線を上げると、さっきまで穏やかに微笑んでいたはずの母の顔には、鬼面を思わせる殺気立った形相が浮かんでいる。あの一瞬で人間の顔はここまで変化するものなのかと、何か間違った感心をしてしまうほどの変わりぶりだ。

「それは許しません」

 雪女を思わせるような、冷たく凍てついた声だった。思わず怯みそうになるジャンだが、ここで負けてはいけないと、心の中で己を叱咤する。

「父さんちからなら、チャリで十五分で行ける。それなら電車賃もかからないし、オレだってそっちのほうが楽だ」
「お金のことはジャンが気にすることじゃないわ。通学が辛いって言うなら、山高への進学は諦めなさい」
「でも、オレは強いとこでバレーがしたいんだよ! この辺なら山高が一番だろ? それに山高なら中学のときの先輩がいるし、その先輩から練習のこととか聞いて、すげえ入りたいって思った」
「ならここから通いなさい。通えない距離でもないでしょう? あの電車なら席に座れないこともそんなにないだろうし、時間はかかるけど我慢できるはずよ」
「練習も夜遅くなることがあるって先輩が言ってた。それなら父さんちから通ったほうがいろいろ安心だろ?」

 バン、と母がテーブルを強く叩いた。

「ナイルの家に下宿することは許しません。あの人はもうあなたの父親でもなんでもないわ」
「んなことねえよ! 父さんとはちゃんと血も繋がってるし、離れて暮らしてたってオレの父さんなんだよ! なんでもねえなんて言うな!」
「あなたのいまの父親はエルヴィンよ。ナイルじゃないわ」

 母は頑なだ。ジャンがどう説得しようと、ナイルの家に住むことは許してくれそうにない。それはわかったけれど、ナイルが父親でもなんでもないという台詞は、簡単に聞き流せるものではなかった。

「それとも、いまの家族が嫌いなの? だからこの家を出たいの?」
「ちげえよ。エルヴィンさんもいい人だし、アルミンだって可愛い。それに母さんがオレのこと考えてくれてるのだってわかるよ。でも、オレにとっては父さんと一緒にいることのほうが幸せなんだ」

 母は鋭い目つきでジャンを睨む。

「幸せでもなんでも、あの人の家に住むことは許さないわ。月に一度なら仕方ないって思えるけど、三年間もあの人と一緒にいさせるなんて、そんなの絶対に駄目」
「でもエルヴィンさんは許してくれたぜ」
「エルヴィンがいいって言っても、私は許しません。あんなろくでもない人のところになんか行かせられるものですかっ」
「ろくでもないってなんだよ! 父さんはちゃんと働いてるし、オレのことだってちゃんと面倒見てくれる。ギャンブルもしない。酒とタバコだってほどほどだ。それでどこがろくでなしなんだよ!」
「ジャンはあの人のこと、ちゃんと知らないからそんなことが言えるのよ」
「知らなくなんかねえよ! もう五年も関わり合ってんだ。十年離れてた母さんよりは、いまの父さんのこと知ってるよっ」

 この人はいったいナイルの何を見てきたのだろう。母の台詞に反論しながら、ジャンは心の中で呟く。
 ナイルは優しいし、カッコいい。ギャンブルもしなければ、酒癖が悪いということもない。悪いところを見つけることのほうが大変だ。何が離婚という残念な結末に導いたのか、見当もつかなかった。
 それとも母の前では違っていたのだろうか? 優しくないナイル……想像もできない。彼は何より家庭を大事にするイメージだ。酒癖に関しても、同じ交番に勤務する同僚から、ナイルは昔から酒に強かったと聞いたことがあるから、やはり悪かったということはないのだろう。

「……なんで離婚したんだ?」

 幼い頃に何度か訊いたことがある質問だが、いつも母は適当にはぐらかした。十歳くらいになってからは、訊いてはいけないことなのだろうと察して、一度もそれを問いかけたことはない。
 今更な質問だ。けれどそれを聞かないことには、母の言うことに納得することはできなかった。はぐらかすことは許さないと、視線に込めて母にそれを送る。
 何か迷うように下を向く母の視線。怒りはいったん成りを潜め、沈鬱な表情が顔に浮かぶ。こうして見ると、自分の顔は母にはまったく似ていない。髪の色は同じだが、それ以外は父の遺伝子ばかりを受け継いだようだ。

「――あの人は」

 薄い唇が、やがて静かに言葉を紡ぎ出す。

「あの人は、ゲイなのよ」
「はっ?」

 疑問符がジャンの口から零れたのは、決して母の言葉の意味がわからなかったからではない。あまりにも予想外すぎて、すぐに頭がついていけなかったからだ。

「あの人は男なのに、男が好きなの。それが離婚の理由よ」

 男が男を好きになる。そういった性指向の持ち主をゲイと呼ぶのだと、ジャンはちゃんと理解している。むしろ自分がそれに当たるはまるわけだから、知らないはずがない。けれどナイルがそうであるなんて、いままで一度だって思ったことなどなかった。もちろんそうであればいいなとおぼろげに思ったことはある。あるけれど、それはジャンの妄想の中だけの話であるはずだった。
 脈打つ鼓動が速まる。手足がなぜだか震えた。胸の奥底から湧き上がってくるこの感情は、嬉しさなのか、あるいは別の何かなのかわからない。一つわかったのは、一生胸の中に封印しておこうと思っていた恋にも、まだ希望があるということだ。

「あなたが生まれた間もない頃、あの人の部屋を掃除していたら、たまたま見つけたの。段ボール箱に入った大量のゲイ雑誌を。ぞっとしたわ。自分の夫がゲイで、しかもそんな人にジャンを触らせていたなんて」

 母は不快そうに眉を顰める。

「あなたがいま月に一度あの人の家に行っているのだって、本当は嫌よ。だってあの人に何をされるかわからないもの」
「父さんがオレに変なことするわけないだろっ」

 初めてオナニーを教えてくれたときだって、きっとジャンに対して下心なんかなかったはずだ。むしろいつも下心を持っていたのはジャンのほうで、ナイルのジャンに対する感情は親子以上のものではなかったと、はっきりわかる。

「わからないじゃない! だって、男が好きなのよ? 自分の子どもだってどうするかわからないわ!」
「そんなの母さんの勝手な思い込みだろっ。父さんはオレに絶対そんなことしない。いままでだって、息子としてずっと大事にしてくれた」
「いまはジャンがまだ子どもだからよっ。これから先、もっと大人になったら何かされるかもしれない。だからあの人の家に住まわせるのは駄目よ」
「勝手に決めんなよ! 父さんはそんな人じゃねえ!」
「そんな人よ! きっと男だったらなんだっていいんだわ!」

 腹が立って思わず手が出そうになるのを、ジャンは懸命に堪えた。わずかに残った冷静な部分で母の台詞を思い出しながら、一つの疑問が頭に浮かび上がる。

「……部屋でそういう雑誌が見つかったからって、なんで離婚に至るわけ? 確かに父さんは男が好きなのかもしれねえけど、だからって本当に男と浮気してたわけじゃねえんだろ?」

 ナイルがそんな不誠実なことをするとは思えない。もちろんその辺りの事情まで知っているわけではないけれど、一緒にいると、そういう部分もなんとなくわかるものだ。何よりナイルばかりが悪者にされるのは気に入らなかった。

「確かにナイルは浮気をしていたわけじゃないわ。いいえ、もしかしたら私の知らないところでしていたのかもしれないけど、していようがしていまいが、ゲイの男が父親なんて、ジャンが可哀想だと思って離婚したの」
「オレのためだってのか?」

 そうよ、と母はさも当たり前のことのように頷いた。

「オレはそんなこと、頼んでねえよっ。ゲイだろうがなんだろうが、父さんと一緒に暮らしたかった」
「それでジャンが何かされたらどうするの?」
「だから父さんはオレに何もしねえって言ってんだろっ!」

 これ以上の会話は不毛だ。ジャンが何を言ったって、きっと母はナイルのことを否定するだけだろう。ジャンのために離婚をしたなんて、そんなの母の勝手なエゴだ。それにゲイのナイルを受け入れられないというなら、同じゲイのジャンのことだって母はきっと受け入れられないのだろう。そう思うと、もうここにはいたくなくなった。
 何よりいまはナイルに会いたい。会って、本当にゲイなのかどうか確かめて、そして――長く心の中で燻り続けていた恋情を、ナイルに直接伝えたかった。伝えた結果どうなるかなんて、まるでわからない。性別の壁を乗り越えられても、まだ二人の間には親子という、更に高い壁がある。けれどナイルがゲイだと知っていながら、自分の想いをずっと胸に秘めておくというのは、ジャンにはもう無理な気がした。

「どこへ行くの!?」

 リビングを出ようとすると、母の鋭い声が静止を求める。

「……父さんとこだよ」
「なんでナイルのところに行くのよっ。さっきの話、ちゃんと聞いてたでしょ!?」
「聞いてたよ。聞いてた上で、母さんとは一緒にいたくないって思った」
「どうして」
「母さんよりも、父さんのほうが大事だからだ」

 吐き捨てるようにそう言うと、母はひどくショックを受けたような顔をしていた。そのまま声も上げずに固まって動かなくなる。
 ジャンはその隙にリビングを出た。ひどいことを言ったのかもしれないが、きっと母はもっとひどいことをナイルに言ってきたに違いない。だから別に母に対して申し訳ないとか、言い過ぎただとか思わなかった。

「ジャン」

 ドアを後ろ手に閉めた途端、いきなり声をかけられた。顔を上げると、エルヴィンが心配そうな顔で佇んでいた。

「盗み聞きするつもりはなかったんだが、マリーとの話、全部聞いてしまった」

 あれだけ怒鳴り合っていれば、二階にいたエルヴィンにも聞こえて当然だろう。

「うるさくしてごめん」
「いや、謝ることなんてないさ。それより、ドークさんのところに行くんだろう?」
「……ああ。どうしてもいま、父さんと話したいんだ。だから止めないでくれ」
「止めるつもりはない。ただ、もう夜も遅くなってきたから、私の車で送っていくよ」
「送ってくって……でも、そんな」
「こんな時間に一人で行かせるわけにはいかない。私に悪いだなんて思わなくていいから。たとえ君が私のことを父と認識していなくても、私にとって君は大事な息子なんだ。だから、たまにはわがままを押しつけてくれ」

 穏やかに微笑むエルヴィン。その優しさに、ジャンは無性に泣きたくなった。きっとジャンが思っている以上に、彼はジャンのことを大事に思ってくれている。そんな彼を父と呼べないことが、途端に申し訳なく思えた。

「もちろん、ドークさんに嫉妬をしていないわけではないよ。同じ家族になった以上、ジャンにも父として頼ってほしい。ドークさん以上にね。でも、血の繋がりというのはとても大事にしなければならないものだと思う。ジャンにとってみれば、ドークさんは自分に命を与えてくれた人だ。そういう人との繋がりは、戸籍云々以上に特別なんだよ。だから君がドークさんとの繋がりを大事にしていることは、私にとって不愉快なことでもなんでもないし、むしろ当たり前のことだと思っている。どうしてもいま会いたいと言うなら、ちゃんと会うべきだ」

 母と違って、エルヴィンはナイルの存在を認めてくれる。ジャンはそれが嬉しかった。嬉しいのと申し訳なく思う気持ちが一杯になって、身支度をしながら少し泣いた。
 部屋を出ると心配そうな顔をしたアルミンに出会ったが、何も言わずに頭を一つ撫でて階段を下りる。
 外から車のエンジンの音がしたから、どうやらエルヴィンは先に外に出たらしい。ジャンも慌てて靴を履いて、玄関のドアをくぐる。
 昼間は雨が降っていたはずなのに、いまはそれも止んで、雲の隙間から大きな月が覗いている。あの月をナイルも静かな町で見ているのだろうかと、ジャンは最愛の人の顔を思い浮かべる。
 ナイルに会って、聞きたいことを聞いて、伝えたいことを伝えて――そうして自分たちは、いったいどうなってしまうのだろう? どうか明るい未来を掴み取れますようにと、頭上に浮かぶ月にジャンは願うのだった。




続く





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