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 その日は、いまにも雪が降り出しそうなほどに寒かった。そのせいか街を歩く人の数も疎らで、どこか寂れたような印象を受ける。きっとどこの家も暖炉を囲って寒さを凌いでいるのだろう。
 外套を羽織っても軽く凍えるような寒さだ。自分も早く帰って、暖炉に火を灯して暖まろう。そのまま惰眠を貪るのも悪くない。
 そんなことを考えるうちに、彼――ナイル・ドークは数十メートル先に自宅が見えるところまで来ていた。あともう少しだ。もう少し頑張れば、この寒さから解放される。
 家までのわずかな距離を一気に縮めようと、足取りが自然と速くなる。だが、それも玄関に辿り着こうかというところで、急に失速し始めた。なぜなら、玄関の前の石段に、誰かが座っていたからだ。
 頭の側面と後面を刈り上げた、短い茶髪。その下の顔は男らしくはあるものの、まだ少年の域を脱していない。石段に座っていたのはそんな風貌の少年で、彼はナイルが帰ってきたことに気づくと、まるで希望の灯火でも見つけたかのように表情を輝かせた。

「ナイルさん!」

 明るい声が、ナイルを呼ぶ。だが、そんな少年の様子とは打って変わって、ナイルの顔は一気に不機嫌なそれへと変わり始めた。

「おい、てめえ! もうここには来んなって何度も言ったろうが!」
「んなのオレの勝手だろ」
「勝手じゃねえ! 迷惑なんだよ! いい加減俺のことは諦めろ!」
「あんたこそいい加減ほだされろよ。オレがこんなに好きって言ってんだから」
「誰がクソガキに、しかも男なんかにほだされるかよ!」

 こんなやりとりをするのは、何もこれが初めてのことではない。
 少年がナイルの家の前に現れるようになったのは、ちょうど三か月くらい前からだろうか。今日と同じように、飲み屋で夜を明かして帰宅すると、この少年が玄関先で待ち構えていた。

『あんたに惚れちまった。責任とって、オレを恋人にしてくれ』

 開口一番にそう告げられ、ナイルはひどく困惑すると同時に呆れてしまったのを覚えている。
 そもそもこの少年との出会いは、ナイルが私用でトロスト区に出かけたときのことである。用事を済ませて街をブラブラ歩いていると、柄の悪そうな男たちに引っ張られていく彼の姿を偶然見つけた。強盗か、あるいは人攫いか。目の前でそんな犯罪が行われようとしているのを見て見ぬふりをするわけにもいかず、ナイルは男たちの後を追った。
 案の定、路地裏ではいまにも少年が布袋に入れられようとしており、ナイルは迷わず技術を行使して彼を助けた。そのときに、彼を安心させるために自分の名前と憲兵団に所属している旨を伝えたのが、いま思えば間違いだったのかもしれない。
 少年――ジャン・キルシュタインは、訓練兵団に所属していた。訓練兵団の教官はそれぞれの兵団と繋がりを持っており、当然ナイルのことを知っている者もいる――というか、知らない者のほうが少ないだろう。
 ジャンはどうも教官を上手く言いくるめ、ナイルの住まいを特定するのに成功したらしい。そうしてさっきの告白に至るわけだ。
 男色の趣味など持ち合わせないナイルは丁重にお断りしたのだが、ジャンは諦めが悪かった。それから二週に一度のペースでナイルの家を訪ねてきては、自分の想いの丈を語ってくれる。
 これが女であったなら、ナイルもいろいろと考えてあげていたかもしれない。だが、顔立ちは整っているとはいえ、相手は男だ。どんなに好かれようが、その想いに答えてやることはできない。

「ほら、帰るぞ」

 けれど、放っておくこともできなかった。帰りはいつも彼をウォール・ローゼの中心街まで馬で送ってやっている。さすがに訓練兵舎のあるトロスト区までは遠くて送ってやれないが、中心街からは馬車が出ているため、あとは彼一人でも問題はない。ちなみにその運賃はナイルが出してやっている。

「おまえいい加減にしないと怒るぞ。つーか、怒ってるぞ」

 二人で一頭の馬に乗り、シーナの整備された道を走りながら、ナイルはそう言い放った。

「それこの前も聞いたし、その前の前にも言ってたな」
「ちゃんと聞いてたんなら、そろそろ俺のことは諦めろよ。どんなに頑張ったって俺はホモにはなれん」
「そう簡単に諦められるほど、オレのナイルさんに対する気持ちは軽いもんじゃねえんだ。つーか、オレはホモじゃねえし。男はナイルさん限定だ」
「んなこと言われても少しも嬉しくねえな」

 ジャンとの関係が発展したとしても、せいぜい弟的な存在くらいにしか思えないだろう。どんなに想像力を働かせても、やはり自分が男と甘い雰囲気になる絵など浮かんでこなかった。

「同期に好きな女とかいねえのか?」
「ちょっと前までいたけど、いまはナイルさん一筋だな」

 最初こそナイルはジャンのその気持ちを吊り橋効果的なものだと思っていた。しかし、普通なら三か月も経てばその効果も薄れるか、あるいは切れるものである。未だに口を開けばナイルに対する愛を語るということは、それは正真正銘の恋愛感情なのだろう。
 鬱陶しいと思う半面で、ナイルは彼が自分を好いてくれることが少しだけ嬉しかった。そう感じるのは、ナイルが長らく誰かから愛情を向けられることがなかったからだろう。二十代の頃はいろんな恋愛をしたし、結婚も経験したが、三十代になってからはそちら方面の話はめっきり降ってこなくなった。だからジャンのような存在はナイルにとってかなり貴重で、邪険に扱いながらも、こうしてわざわざ送ってやる程度の情はあったりする。

「もったいねえな。貴重な青春時代をこんなおっさんと過ごすなんて、馬鹿にもほどがある」
「おっさんでもオレにとっては一番カッコよくて、一番好きな人なんだよ。もったいねえなんてことはねえ。むしろこうして一緒にいられて幸せだよ」
「……そんな恥ずかしい台詞、よく言えるな」
「オレは正直者だからな」

 その正直さや積極的なところは若さゆえなのか、それとも彼の性格がそうなのかはわからないが、時々それが羨ましいと思うこともある。昔はナイルも恋愛に対しては同じような感じだったが、歳を取ったいまはどうにも奥手になりがちだ。だから二度目の結婚はなかなか叶わない。いや、特に望んでもいないが。

「奥さんと付き合い始めたときって、ナイルさんから告白したのか?」
「告白らしい告白はしなかったな。元々幼馴染で、一緒にいるのが当たり前みたいだったからな。ただ、プロポーズはちゃんとしたぞ」
「へえ。プロポーズの台詞は?」
「……んなこと教えるかよ」
「ええ、いいだろ! 減るもんかじゃねえし!」

 幼馴染だった元妻は、重い病気を患っていた。それを打ち明けられ、そのときになって初めて彼女に対する自分の気持ちに気づいたナイルは、告白などすっ飛ばしていきなりプロポーズをしたのだった。
 そのときの彼女の様子はいまでも鮮明に覚えている。最初はひどく驚いたような顔をして、けれどすぐにふわりと笑うと、よろしくお願いしますと言ってくれた。
 彼女との生活は幸せに満ちていたが、一年ほどで彼女は病気で亡くなってしまった。後にも先にも、彼女ほど愛おしく思った相手はいない。きっとこれからもそれは変わらなくて、結局恋人をつくることをしないままにナイル人生が終わってしまうのだろう。

 ウォール・ローゼの中心街に着くまで、ジャンはいろんな話をしてくれた。訓練兵団での日常生活のこと、トロスト区のちょっと変わった店のこと、ナイルの家に着くまでに見てきたいろんな光景――まるでナイルに会えなかった二週間の空白を埋め尽くすかのような勢いで、次々と話題を繰り出してくる。
 ジャンは子どものくせに話し上手だ。少し悔しいが、聞いていてなかなかにおもしろい。だからこそローゼまで彼を送るのを苦痛に感じないのだろう。

「サンキュー」

 いつもの大通りに馬を停めると、降りたジャンが礼を口にする。

「寄り道しないでとっとと帰れよ」
「お別れのキスはしてくれねえの?」
「するかボケ! もううちに来るんじゃねえぞ!」
「また二週間後に行くぜ。今度は家に入れてくれよな」
「誰が入れるか!」

 手を振って馬車乗り場に駆けていくジャンの後姿を見送り、ナイルもまた来た道を戻る。

 言葉の端々に、態度に、ナイルに対する好意が滲み出ている。
 彼の気持ちに答えてあげられないとわかっているなら、中途半端に優しくするのはやめたほうがいいだろう。家に押しかけられても無視をするか、あるいはもっと邪険に扱い、突き放したほうが彼も諦めるかもしれない。
 だが、ナイルにはそれができなかった。ジャンが恋愛対象になり得ないのだとしても一人の人間としては嫌いではないし、平和な日常にいい刺激をくれる貴重な存在になっているからだ。
 それに、自分を好きと言ってくれる人間のそばにいるのは心地がよかった。仕事以外には何も持たないこのつまらない男を、彼は必要としてくれる。それだけでとても満たされた気持ちになった。

(あんなガキに飢えた心を満たしてもらってんのか、俺は……。そりゃあ寂しい人生だな)

 そう思いながらも、きっと二週間後も自分はこうしてローゼの街まで彼を送っていくのだろう。









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