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 寒さは一段と厳しさを増し、ついに内地にも雪がちらちらと舞い降り始めた。
 酒で身体が少し温まっているとはいえ、それでもこの寒さは身に凍みる。暖炉を準備するまでは家も寒いが、外にいるよりはだいぶマシだ。

(あいつ、こんな日にも来る気なのか?)

 ふと思い浮かべたのは、二週毎にナイルの家にやって来る少年の顔だ。いつもどおりなら今日もまた玄関の前でナイルの帰りを待っているはずだが、さすがにこの寒さではわざわざトロスト区から来ようとは思わないだろう。
 しかし、ナイルの予想に反して、自宅の玄関には一人の少年の姿があった。特徴的なツーブロックヘアーはニット帽に隠れているが、白い息を吐く顔はナイルのよく知るそれだ。

「お前は馬鹿なのか? こんな寒い日に普通来ねえだろう」
「こんな寒い日に来ちゃうほど、あんたのことが好きなんだよ」
「はあ……」

 内心少しだけ嬉しかったのを溜息で濁すと、ナイルはジャンを通り過ぎて、玄関の鍵を開錠する。

「……入れよ。さすがに冷えただろ?」
「マジで!?」

 こんな寒い中で待ちぼうけなどしたら、身体も相当冷えているはずだ。それをそのまま突き返すのも気の毒だし、ナイルもいまからすぐに送っていく気にはなれなかった。
 ジャンはひどく驚いたような顔をしているが、そうなるのも無理はない。いままで何度訪ねられても、ナイルは一度だって彼を家に入れたりしなかったからだ。
 ジャンを家に入れなかったのは、何か面倒事を引き込んでしまいそうだと思ったのと、素性の知れない人間を家に入れることに抵抗があったからだ。けれどいまは決して赤の他人とは言えないし、彼の素性や人間性も理解している。家に入ることを拒む理由もないだろう。

「お邪魔します」
「おう。荒らすなよ」
「んなことしねえよ。ガキじゃねえんだから」

 などと言いながらも、家の中を見回すジャンの顔はおもちゃの山でも見つけた子どものように輝いていた。

「結構広いのな」
「元々二人で住んでたし、子どもも二人くらいつくるつもりだったからな」

 いまはもう叶わぬ夢ではあるが、家を手放すのはなんとなく寂しくて、いまもこうして広い家に一人で住んでいる。

「すまんが暖炉に火を入れておいてくれねえか? 俺は飲み物用意してくる。コーヒーでいいだろ?」
「ああ。サンキュー」

 要領はわかっているようだったので、暖炉はジャンに任せてナイルはキッチンに向かった。二人分のコーヒーを準備しながら、今日は何時頃にジャンを送っていこうかと思案し始める。

(つーか、あいつ家に上げてよかったのか……)

 家に上げて、飲み物まで準備してやって、これではジャンが余計に自分に懐くだけだろう。まあ、今更遅い後悔ではあるが。
 淹れたコーヒーをリビングに持っていくと、ジャンは戸棚の前でぼうっと突っ立っていた。視線の先には古びた肖像画がある。

「これ、奥さん?」
「ああ」
「すげえ綺麗だな」
「だろ。俺の自慢の嫁だ」

 額縁の中の彼女は、老いもせず静かに笑っている。それを見るたび、あれからもうずいぶんと時間が立ったのだと思い知らされた。

「やっぱり悲しかった?」
「そりゃあな。覚悟はしていたつもりだが、それでも最初はショックで何もわからなかったな。葬儀が終わって、一人でこの家に帰ってきて、初めて涙が出た」

 幼い頃から彼女を知っていただけに、喪失感はナイルの思っていた以上に大きかった。もう一生泣き止まないのではないかと思うほどに泣き、それが止んだときにはナイルの心にぽっかりと穴が空いていた。

「……残念だったな」
「まあ、な。でももうたいぶ時間が経った。立ち直るには十分すぎるほどにな」

 少し悲しげな顔をしたジャンに笑いかけ、ソファに座るよう促す。

「再婚しようとは思わねえのか?」
「あいつよりもいい女がいれば考えるさ。でも、いまのところそういう女には巡り会えないでいる」
「へえ。奥さんのこと、相当好きだったんだな」
「まあ、な」

 はあ、と隣に座ったジャンは大仰に溜息をつく。

「オレもナイルさんに、そんなふうに愛されてみてえわ」
「……気色悪いこと言ってんじゃねえ。男って時点でその見込みはねえぞ」
「んなことわかんねえだろ? 一緒にいるうちにほだされてくれるかもしれねえし」
「誰がほだされるかよ。だいたいおまえ、俺のどこがいいってんだ? カッコイイとかほざいてっけど、それって人攫いから助けられて舞い上がってるだけじゃねえのか? 具体的にどこがいいのか言ってみろよ」
「まずその男臭い顔だな。同期にも男臭い顔したやついるけど、それとは違ってナイルさんは大人の色香を感じるよ。それから髭。男臭い顔がよりワイルドに見えて最高だ。あと、綺麗な黒髪だよな。パサつきもねえし、刈り上げもちゃんと手入れされてて見栄えがいい。それから、声だ。少し嗄れてるけど、そこがまたちょい悪――」
「いやいい。やっぱいい。もういい。訊いた俺が悪かった」

 なんだか一時間くらい語りそうな勢いのジャンを制し、ナイルは温かいコーヒーを一口すする。

「顔なんて、男なら誰だって歳とりゃ男臭くなるだろ。髭は剃るのが面倒で放置しているだけだ。たまに切るけどな。髪は言うほど綺麗じゃねえだろ。ちゃんと洗ってはいるが、別にケアはしてない。それと声はよく聞き取り辛いって言われるぞ」
「それでもオレにとっては全部魅力的に見えるんだよ。だから自信持てって」
「……お前は本当におかしなやつだな」

 認めるのは悔しいが、ナイルくらいの年齢の男はすでにおっさんと呼ばれる領域に入っていると言えるだろう。そんなおっさんがなぜ恋愛対象になり得るのか、まったく理解ができない。男を好きになるにしても、彼の同期に魅力的な同性はたくさんいそうなものだが。

「お前って、ひょっとして俺とセックスしたいとか思うのか?」

 年頃の少年といえば、性に対して旺盛な興味を持つものである。ナイルも少年時代はそうだったし、同期の女をそういった目で見ることもしばしばあったものだ。

「そんなの当り前だろ。思春期真っ盛りだぜ? したいって思わないほうがおかしいだろ」
「お前はホモじゃないんだろ? 男の裸に興奮できるのか?」
「ナイルさんの裸だったら即勃起だな」
「見たこともねえくせによく言えるな」
「じゃあ、いまから見せてくれよ。そしたらオレも興奮したって証拠見せられっから」
「誰が見せるか馬鹿! お前の証拠も別にいらねえよ!」
「ならせめて触らせてくれよ。服の上からでもいいからさ」

 言うや否や、ナイルの返事も待たずにジャンの手がすっと伸びてくる。躱す間もなく胸に触れられ、少し撫でられたあとに腹のほうへと下りていった。

「腹すげえかてえな! ナイルさん絶対いい身体してるだろ?」
「別に普通だ」

 若い頃に比べると脂肪が増えはしたが、だらしなくならないように筋トレはちゃんと続けているため、決して悪い身体ではないだろう。
 服の上から触られるくらいなら別にいいかと、ナイルは特に抵抗しなかった。しかしジャンの手が太ももに下りてくると、何か危機感のようなもの感じてその腕をすぐに引き剥がす。

「変なとこ触ってんじゃねえよ」
「チッ、そのまま流されてくれるかと思ったのに。クソっ、先にチンコに触っときゃよかった」
「このエロガキが……」
「仕方ねえだろ。ナイルさんのことが好きで好きでしょうがねんだから」

 こんなふうに積極的にナイルに言い寄ってくる相手は初めてだ。そもそもいままでは相手が女だったから、ナイルが言い寄ることのほうが多かった。だからどうにも落ち着かないし、どうしていいかもわからない。だが一つ言えるのは、それが決して不快ではないということだ。

「でもさ、オレは別にセックスしなくたって、こうしてナイルさんと話をしているだけでも結構幸せなんだぜ? それになんだかんだでナイルさんいつもオレのことローゼまで送ってくれるし、今日はこうして家にも入れてくれた。そんなふうにちょっと優しくされただけで舞い上がっちまう」

 ナイルを見つめる切れ長の瞳の奥には、とても純粋で眩しいような恋心が宿っている。大人になっていろいろ知ってしまった自分には持つことのできない、穢れも裏もない綺麗な感情だ。

「なあ、ナイルさん」
「なんだよ?」
「手、繋いでもいいか?」

 そう訊いてきたジャンの顔には、いままでに見たことのない色が浮かんでいる。いつもの生意気さや子どもっぽさが消え、どこか影を感じさせる真面目な表情がそこにはあった。
 ナイルには彼の表情の理由がなんとなくわかった。

(諦めてるのか、俺のことを……)

 その顔は、そこに希望の光がないとわかっている顔だ。一緒にいるだけで幸せだが、それ以上の未来はない。そんな諦めがきっと彼の心の中にあるのだろう。

「ほらよ」

 それを知って、なんだか切ないような気持ちになる。健気な彼に報われてほしいと思ってしまう。だからナイルはソファーに置かれたジャンの手を取り、優しく握った。

「ナ、ナ、ナイルさん!?」

 まさかナイルが本当に自分の手を握ってくれると思っていなかったのか、ジャンは素っ頓狂な声を上げた。

「お前が繋ぎたいって言ったんだろうが」
「で、でも、あんだけオレのこと鬱陶しがってたじゃねえか」
「そりゃ鬱陶しいけど、こうしてやるほどには嫌いじゃねえ」

 本来なら男と手を繋ぐなんて御免被るところだが、こんなに純粋な好意を向けてくれる相手のお願いを無碍にできなかったし、別に嫌だとも思わなかった。

(結構ほだされてきてんのか、俺は……)

 握った手は少し冷たかった。きっと寒い中外で待たせていたせいだろう。感触はやはり女のものとは違うが、ナイルほどゴツゴツはしていない。色艶も男にしては綺麗だと、無遠慮に観察しながら思った。
 これは、寒さに屈せずにここまで来てくれたご褒美だ。そう心の中で言いながら、ナイルはジャンの手の甲に唇を軽く押し当てる。
 てっきりさっきみたいに驚いて変な声を上げるかと思っていたのだが、意外にもジャンの反応はない。しかし、ふと目をやった彼の端正な顔立ちは真っ赤に染まっており、効果は絶大だったのだと思い知らされる。

(くそ、可愛いな……)

 愛の言葉はなんの恥ずかしげもなさげに口にするくせに、こういうことをされるとずいぶんと初々しい反応をするらしい。それがなんだか愛おしく思えて、ナイルは何度も彼の手に口づけを落とす。

「ナイルさんっ……」
「こういうのは嫌か?」
「嫌じゃねえけど……ナイルさんこそ、嫌じゃねえの?」
「わざわざ自分が嫌なことをするわけないだろ。こういうことしてやれるくらいの気持ちはあるんだよ。だから、おまえは何も諦めなくてもいい」

 きっとジャンに心を奪われてしまうのも、時間の問題なのだろう。最初はただ鬱陶しいだけだったはずなのに、健気な彼の姿にナイルの気持ちは引き込まれつつあったらしい。

「おまえ童貞か?」
「だ、だったらなんだよ?」
「いや、別に。ただ反応が可愛いなって思っただけだ。顔真っ赤にしやがって」

 ナイルはジャンの短い髪を梳くように撫でる。

「男ともセックスしたことねえんだろう?」
「ねえよ。想像もしたことねえ。――いや、ナイルさんに抱かれる妄想はしたことあるけど」
「それでヌけたのか?」
「ヌけたな。最高に気持ちよかったぜ」

 一方のナイルは、やはり男を抱くなんて想像もできなかった。果たして目の前の少年で勃起するのか、彼のモノに触ることができるのか――もはやそれは未知の領域だ。
 けれどこうして頭を撫でたり、手にキスができたりする時点で、ある程度の素質はあるのだろう。見込みがないなんて大嘘だ。正直に言えば身体を抱きしめることもできるし、唇にキスをすることもできる気がする。
 いまそれをしないのは、自分の中の彼に対する感情が、果たして恋愛感情なのかどうかはっきりとしないからだ。相手が本気で感情をぶつけてきている以上、こちらも生半可な気持ちでこれ以上のことをするわけにはいかない。考えて、考えて、ちゃんと自分の気持ちを理解した上で、まずは彼の告白に対する返事をしなければならないだろう。すべてはそこからだ。

「もう少しだけ待ってくれ」

 真面目な返事をするのは初めてだ。いつも適当にあしらうだけで、彼の気持ちに向き合おうとしたことなど、ただの一度もなかった。

「もう少しで、この気持ちがなんなのかわかる気がする」

 それを聞いたジャンは、穏やかに微笑む。

「いつまでも待ってるぜ。だから、ゆっくりオレだけのことを考えてくれよ」









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