07. でもいまは、馬鹿な恋なんかじゃないとはっきり言える


「――ふざけんなよっ」

 腕の中から鋭い声が上がると同時に、前から衝撃を受けて身体がよろめいた。どうやら突き飛ばされたらしい。改めて視線をジャンのほうに向けると、男前なその顔は怒りに染まっていた。

「いきなり呼び出されたと思ったら、なんだよ、それ。意味わかんねえよ!」

 なんでおまえがそんなに怒るんだ? これでおまえは自由になれるんだぞ? そうすればミカサともちゃんと向き合っていけるはずだ。

「あんだけオレのこと好き好き言ってたのはなんだったんだよ! それとも今更遊びだったなんて言うつもりじゃねえだろうな?」
「違う! 遊びなんかじゃない!」

 遊びで手を繋いだり、キスしたりなんかできるわけないだろ。俺はいつだって本気だった。

「じゃあ、なんで別れるとか言い出すんだよ! 何かオレに不満でもあんのか!?」
「だっておまえは……ミカサが好きなんだろう?」

 ジャンの視線の先にはいつもミカサがいて、きっと頭の中も俺じゃなくてミカサでいっぱいなんだろう。それがわかってしまう瞬間が幾度となくあって、そのたびに胸が苦しくなった。
 ジャンは何も言わなかった。けどその豆鉄砲でもくらったかのような顔は、俺の指摘が正しいことを証明している。

「さっきだって楽しそうに話してたじゃないか。エレンがいるとはいえ、ジャンにも可能性がまったくないわけじゃない」
「……見てたのかよ」

 見たくはなかったけどな。

「前にも言っただろう? 俺はジャンに、俺のことしか好きになってほしくないし、俺のことしか考えてほしくない。けどいまのジャンは気持ちが二つに分かれてる。いや、たぶんミカサ側に傾いてるんだろう」

 それが目に見えてわかるだけに辛い。

「それなら俺が引くしかないだろ? このまま付き合っていっても、ジャンが中途半端な気持ちでいる限り、お互いに辛いだけだ。だから、別れよう」

 結局のところこの恋に望みなんてなかったんだ。そんなこと最初からわかっていたはずなのに、どんどん深みにハマっていって、そしてこのざまだ。なんて馬鹿な恋をしてしまったんだろう。

「人の気持ち、勝手に決めてんじゃねえよ」

 そう言ったジャンの声は静かだったが、怒りを押し殺すような気配を確かに感じた。

「オレの気持ちがミカサに傾いてるだって? そんなのおまえが勝手に思い込んでるだけだろうが! オレは……オレはおまえが好きだよ。それこそオレのすべてをくれてやってもいいくらいにな」
「けど、ミカサに対しても同じ気持ちを持ってるんだろ?」
「そりゃ、前はそうだったかもしれねえ。でも、いまは違う。ちゃんとライナー一筋で生きていくって決めたんだ」

 俺をまっすぐに見つめる瞳は、嘘をついてないと雄弁に語っている。

「さっきはケジメをつけに行っていた」
「ケジメ?」
「ああ。いつまでも中途半端なままじゃ、おまえに悪いからな。だからミカサにちゃんと告白して、振ってもらった」
「はあ!?」
「ミカサを諦めるためには、それが一番手っ取り早いだろ?」
「そうかもしれんが、もしOKされていたらどうするつもりだったんだよ?」
「OKなんかされるわけねえだろ。だからそんなこと考えてもねえよ」

 まあ、冷静に考えればそうだな。ジャンでなくともミカサは誰の告白も受け付けないだろう。どこかの誰かさん以外は。

「告白したら、なんかすっきりした。これでやっとオレは前に進める。ライナーと対等に向き合うことができる」
「じゃあ、俺の恋人になってくれるのか?」
「そういうことだ。だから、別れるとか言うんじゃねえ」

 雪が降り積もり、凍えてしまいそうなほどに冷えていた心の中が、陽の光を浴びて一気に温かくなる。そんな感覚を覚えると同時に、目の前のジャンの顔がぐにゃりと歪んで見えなくなった。

「お、おいライナー! 泣いてんじゃねえよ」
「だってよぉ、こんなにジャンのこと好きなのに、もう駄目になると思ったから……」

 嬉しくて、嬉しくて、どんどん涙が溢れ出す。するとジャンがそっと俺を抱きしめてくれて、優しく頭を撫でられた。

「不安な思いさせて悪かった」
「いいんだ。最後にはちゃんと俺のことを選んでくれたから」

 この温かい身体を、俺は手放さなくていいんだ。またキスをしたり、手を繋いだりしてもいいんだ。

 何をきっかけにジャンを好きになったかは、未だに思い出すことができない。気づけば視線でジャンを追う自分がいて、強烈な恋心が自分の中に芽生えていた。
 長い片想いだったな。いったい何度馬鹿な恋をしてしまったと思っただろう。でもいまは、馬鹿な恋なんかじゃないと言える。だって、ジャンも俺と同じ気持ちを返してくれたからな。


 ◆◆◆


「――あら、ジャンお帰り。そちらの方はもしかして教官さんかしら? いつもジャンがお世話になってます〜」

 ジャンが玄関のドアを開けると、一人の女性が何やら出かける準備をしているところだった。歳は三十半ばといったところだろうか、顔は似てないが、これがおそらくジャンの母親だろう。

「ばっか、オレの同期だよ!」
「あら、お友達だったの!? それは失礼したねえ。体格いいし、顔つきもずいぶんと男らしいから間違えちゃった」
「あはは……」

 まあ、もうそういうのは慣れてるな。老け顔なのはちゃんと自覚している。いつかなんか大人の男が通うような店のしつこい勧誘に遭ったしな。

「ジャン、母さんいまから急ぎの用があるから、お友達にちゃんとお茶とか出すんだよ? もらいもののお菓子が少しだけ棚に入ってるから、それも出しなさい。それと、今度からお友達を連れてくるときは母さんに早く言いなさいよ。なんの準備もしてなかったじゃないの」
「うっせえ、ばばあ。さっさと行きやがれ」
「はいはい、言われなくてももう行きますよ。それじゃ、ゆっくりしていってね」
「あ、はい。お邪魔します」

 よほど急いでいるのだろう、ジャンの母親は走り出すような勢いで玄関を出て行った。

「ばばあが失礼なこと言って悪かったな」
「いや、別に気にしてねえよ。それにしても、全然似てないな」
「ああ。オレは父親似なんだ。あとで写真見せてやるよ」

 ジャンと付き合い始めて、初めての休日。せっかくだから一緒に出かけようとデートに誘うと、逆にジャンの家に誘われた。ジャンの家は訓練兵舎からかなり近く、休日のたびに帰宅しているそうだ。
 案内されたジャンの部屋は、あまり物がなくて小ざっぱりとしていた。ここで生活しているわけじゃないから、そんなもんか。木製の机の上には何冊かの本と写真立てがあり、ジャンはそれを指さす。

「これがオレの親父だ」

 写真の中には、いまよりも少しだけ幼い顔をしたジャンと、それを挟むようにして両親が両脇に立っていた。なるほど、確かにジャンは父親似だ。あの鋭い目つきと男臭い顔立ちはまんまジャンと言った感じだ。たぶん、ジャンが三十台になればちょうどこんな容姿になるだろう。将来が楽しみだ。

「親父さん、男前だな」
「だっろ? オレも自分の父親ながらよく思うぜ」
「でも、ジャンのほうが男前だ」
「……そうかよ」

 そっぽを向いたジャンだが、耳が赤くなっているのを俺は見逃さなかった。照れているときの癖だ。

「可愛いなあ、おまえは」
「うっせえ……。茶持ってくるから適当に座って待ってろよ」
「へいへい。よろしく」

 ジャンって普段の素行的に、褒めたら調子に乗りそうなんだがな。意外と照れることが多い。まあ、それはそれで可愛いからいいんだが。
 ベッドに座って待っていると、予告どおりにジャンは茶と菓子を持ってきて、さっきの机の上に置いた。それからなぜかもう一度ドアのところに戻ると、隅に置いてあったブロックを閉めたドアの前に移動させる。

「何やってんだ?」
「あのばばあ、ノックせずに人の部屋入ってくることがあるからな。一応の対策だ。いつ帰ってくるかもわかんねえし、こうしておいたほうが安心だろ?」
「別にそこまでする必要はない気がするんだが……」
「は? ヤってる最中に入られたらやだろ」
「ヤるって……え?」
「とぼけんなよ。思春期の恋人同士が部屋でヤるっつったら一つしかねえだろうが」

 あ〜、なるほどな。確かに心構えをしてなかったわけじゃないけど、まさかジャンがそんなに積極的だとは思ってもみなくて、ちょっとびっくりしてしまった。

「ジャン……いいのか?」
「ライナーだっていい加減ヤりたくてヤりたくてしょうがねえだろ? 結構待たせちまったからな」
「まあ、そうだが……。そういうジャンはどうなんだ? 俺とヤりたいか?」
「っ……んなこと、いちいち訊くなよ。ちょっと考えりゃわかんだろうが」
「いいや、わからんな。ジャンの口からそういうの聞いたことないし、態度にも表れてねえから」
「…………ヤりたかったに決まってんだろ。オレだって思春期の男なんだからな。これで満足か?」
「ああ。だからこっち来いよ」

 そりゃ、そんな恥ずかしそうに言われたら満足しないわけにもいかない。あんまり虐めると今度は拗ねてしまいそうだし、ちゃんとジャンも俺と同じ気持ちだったとわかってかなり嬉しかった。
 ジャンは恥ずかしそうにそっぽと向いたまま、俺の隣に座る。俺はそっとその肩を引き寄せ、後頭部の刈上げをそっと撫でた。

「ヤり始めたら理性なんか利かなくなって、たぶん最後までやっちまうと思う。でも、優しくするのだけは忘れねえから」
「別に、優しくなくてもたぶん平気だ」
「ジャンに痛い思いはしてほしくないんだ。ちゃんと二人で気持ちよくなりたい。だから俺が暴走しそうになったら、そのときは蹴っ飛ばしてでも止めてくれ」
「……わかった」

 横を向くと、切れ長の瞳と視線が交わる。その瞳に吸い寄せられるようにしてあとほんの数十センチの距離を一気に埋め、薄い唇に自分の唇を重ねた。




続く





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