「怒らずに聞いてほしいんだけど」 緊迫した状況にあるにもかかわらず、ジャンの隣に座った彼の声は穏やかだった。 「ジャンは強い人ではないから、弱い人の気持ちがよく理解できる。それでいて、現状を正しく認識することに長けているから、いま何をすべきか明確にわかるだろう?」 確かに現状を正しく理解することもできるし、いま何をすべきかもわかる。けれど自分の選択した道が正しいかどうかは自信がない。ここに来るのだって、ジャンについて来た者の内いったい何人が巨人の餌食になっただろう。 「ジャンの指示は正しかった。だから僕は飛び出し、こうして生きている」 そういって彼――マルコ・ボットは穏やかに微笑んだ。 誰かにいってほしかった。さっき自分のしたことが決して間違いではなかったと。おまえの出した指示は正しかったのだと、認めてほしかった。そんなジャンが最も欲していた言葉を、マルコは躊躇いもなく口にしてくれた。 (よかった……) 彼の笑顔を見ながら、ジャンは心の中でそっと呟いた。 (おまえが生きてくれていて、よかった) 夜明け前の祈り 目を覚ますたび、ジャンはいつも虚無感に囚われる。 ああ、この世界のどこにもマルコはいないのだ、と。人を安心させるようなあの笑顔を見ることはもうできないのだ、と。 ジャンになら命を預けられるといってくれた彼は、死んでしまった。たった一人の存在が欠けただけで、ジャンの目に映る世界から色が失われた。心にぽっかりと穴が開いたまま、モノクロの世界をジャンは無心に生きている。 いや、決して目的意識をなくしたわけではない。誰かが自分の知らぬ間に巨人に食われて死んでしまうような世界を変えたい。こんな虚しさを感じずに済むような、平和な世界にしたい。そんな意志の数々を抱えて、ジャンは自分とは最も縁がないはずだった調査兵団へと入団したのだった。 そして今日も始まる。モノクロの世界の一日が――。 「はっきりいって、おまえたちはいつ死んでもおかしくない」 しん、と静まり返った食堂に、兵士長リヴァイの声が響き渡る。 「それは明日なのかもしれないし、もっと先のことなのかもしれない。いずれもここは死と隣り合わせの危険な場所だ。だから自分の人生に悔いのないよう生きてほしい……という団長の計らいにより、調査兵団では半年に一度こうして豪勢な食事を振舞うと決まっている。そして今日がその日だ。団長に対してはもちろんのこと、作ってくれた人間への感謝も忘れず、心して食え。遠慮はいらねえぞ。ただしサシャ・ブラウス、おまえは少し弁えろ」 「そんな〜!?」 静かな空気から一転、どっと笑いが湧き起こり、賑やかな空気に変わって食事は始まった。 滅多に食べられない肉料理や、自宅や訓練兵舎ではお目にかかれなかった色鮮やかなサラダ。どれもこれも皆美味しそうだったが、ジャンはイマイチ食欲が出ず、ただそれを眺めやるに留まっていた。 和やかに談笑しながら食べ物を口に運ぶ兵士たち。まるでつい先日巨人に壊滅寸前まで追い込まれたのが嘘のようだ、とジャンは思う。この中にはそのときに大事な恋人や友人を失った人間もいるはずなのに、どうして皆笑ってなどいられるのだろうか? 「――ジャン」 壁にもたれてぼうっとしていると、聞き慣れた声が耳朶を叩いた。声のしたほうに目を向ければ、同期生であるエレンの大きな瞳がジャンの顔を覗き込んでいた。 「さっきからそこに突っ立ってるみてえだけど、食わねえのか? せっかくの豪華な料理なんだ。食べねえともったいないぞ。ほら、持ってきてやったから」 差し出された皿には、美味しそうな焼き色をしたチキンが乗っている。けれどジャンはそれをちらっと見ただけで、すぐに視線を足元に落とした。 「ほっとけよ。いまは食欲ねえんだ」 「んなこというなよ。これ、美味いぞ?」 エレンがジャンに世話を焼くなんて、普段の彼からは考えられないことである。顔を合わせればいつも口喧嘩をしていたような仲だ。少なくとも好意的には思われていないだろうし、ジャンだって嫌いではないにしろ、仲良くしたいとは思わない。 たぶん、ジャンがひどく落ち込んでいるふうにでも見えたのだろう。いや、実際にそのとおりではあるのだが、彼でさえも心配になるほどに自分はしょぼくれていたらしい。 「……やっぱり悲しいよな」 ジャンが再び一人の世界に戻ろうとしていると、隣のエレンがぽつりと呟いた。 「あれだけ大勢の仲間が死んだんだ。ジャンだって悲しいよな。俺もみんなの最期を思い出すたびに、胸が苦しくなる」 「……その割によく食ってるみてえじゃねえか?」 「だって、いつまでもウジウジしてたって仕方ねえだろ。俺が悲しんだところで死んだやつらは帰って来ない。ならいまはしっかりと食って体力つけて、あいつらの分も戦えるようにしておくのが正しいことだと思う。違うか?」 確かにそのとおりだ。悲しんでいる暇があるのなら、その時間を自身の力量の向上に割くべきだとジャンもわかっている。わかっているのに、ジャンの気持ちは一向に前を向いてくれない。過去がまるで影のように自分の身体にまとわりついて、ジャンが先に進むことを拒んでいるようだった。 「うるせえな。おまえと違ってオレはデリケートなんだよ。まだあれからそんなに日が経ってねえのに、そんなもん食ってられるかっつーの」 「なんだよ、人が心配してやったってのに」 「余計なお世話だ。まあでも、そのチキンはもらっといてやる」 本当は少しだけ、ほんの少しだけエレンが声をかけてくれたことが嬉しかった。まるで凍った湖のように冷え切っていた気分が、彼と話したことで熱を持ち始めた気がする。 エレンが前を向いて頑張っているのに、自分がこんなところで立ち止まっていていいわけがない。彼に追い抜かれ、どんどん差がついてしまうのだけは悔しい。そんな思いが少しだけジャンに前を向かせてくれた。 一口齧ったチキンは、ジャンが思っていた以上に柔らかかった。味付けは薄いほうだが、チキンそのものがとてもいい味をしていて、すぐに二口目が欲しくなる。 「それ美味いだろう?」 「まあ、エレンにしてはいいもん持って来てくれたじゃねえか」 「もっとちゃんと感謝しろっての!」 「はいはい。ありがとよ、この死に急ぎ野郎」 「全然ちゃんとしてねえし! あと最後のは余計だろう!」 「うっせーなあ! ちゃんと感謝してんだろ! そう聞こえなかったんなら、おまえの耳か脳みそがおかしいんだよ!」 「何!?」 「――おまえたち」 二人の間に、訓練兵時代は当たり前だった口喧嘩が巻き起ころうとした刹那、第三者の鋭い声がそこに割って入った。 二人同時に声のしたほうを見れば、兵士長リヴァイが人を簡単に殺してしまいそうな目つきでジャンたちを睨んでいた。 「楽しむのは勝手だが、喧嘩までしろとはいってねえ。もしここで喧嘩を始めるというなら、二人まとめて壁の外に投げ捨ててやるぞ」 「「す、すいません……」」 「仲良くしろとはいわねえが、せめて穏やかにやれ」 そういった本人が一番穏やかではない顔をしていたが、そんな指摘をジャンたちができるわけもなく、彼が去っていくのをただ黙って見送った。 「こ、怖かったな、ジャン」 「あ、ああ……」 背は低いくせに、威圧感のある人だ。さすがに人類最強と呼ばれているだけあると、離れていく背中を見つめながらジャンは思った。 「なあジャン、少しは元気出たか?」 視線をエレンに戻せば、彼は普段ジャンにはあまり見せることのない優しげな笑みを浮かべていた。 「別に、オレは最初から元気だよ。勘違いしてんじゃねえ」 「嘘つけ。いまにも自決してしまいそうな顔してたぞ。ジャンがそんなだと俺も調子狂っちゃうんだ。だから早くいつもどおりになれよ。じゃあな」 いいたいことをいい終えたのか、エレンは軽く手を振って喧騒の中に戻っていった。 認めるのは少し悔しいが、エレンはいいやつだ。彼の純粋な優しさがいまはむず痒いようで心地いい。おかげでジャンは少しだけいつもの自分を取り戻せた気がした。 |