◆◆◆ 正直すぎることは、ときに人を傷つけることもある。それはジャンもわかっていたのだが、自分のその性格を捨てることはできなかった。だから訓練兵団に入団したばかりの頃は、ジャンと仲良くしたいといってくれる者はいなかったし、ジャン自身別にそれで困ることもなかったため、訓練のとき以外は一人でいることが多かった。 そんなときである。食事をしていたジャンに“彼”が話しかけてきたのは。 「やあ、ジャン。隣いいかい?」 振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた“彼”が食事を載せたトレイを手に立っていた。 マルコ・ボット。特に特徴のない人間だが、部屋が同じだから顔も名前も覚えている。時々会話を交わすことはいままでもあったものの、食事中に話しかけられるのは初めてだ。 「ああ。別にいいけど」 「そうかい。じゃあ、失礼して」 マルコはジャンの隣に着席すると、静かに食事を始めた。 「どうしてオレの隣に座ろうと思ったんだ?」 兵舎でのジャンの評判はあまりよくない。他にも席はいくらでも空いているというのに、どうしてわざわざ自分の隣に座ろうと思ったのだろう? 気になってジャンは訊ねてみる。 「ジャンとちゃんと話をしてみたかったから」 「でも、他のやつらがオレのことなんていってるか知ってるだろ?」 「知ってるよ。でも他の人は他の人、僕は僕だ。僕の思うように行動するよ。それに僕は君の正直すぎるところ、決して嫌いじゃないよ。僕はつい建前ばかり口にしてしまうから、君のそういうところが少し羨ましいとも思う」 「……へ、そうかよ」 この性格を羨ましいなどといってくれる人なんて初めてだ。それが少し嬉しくて、照れくさくてジャンは思わずにやけそうになった。それを隠すようにマルコのいるほうとは反対側に顔を向ける。 「あ、やっぱりこういうの、迷惑だったかな? 僕とは友達になれない?」 「……んなこといってねえだろ。と、友達でいい。仲良くしてやるよ」 「本当!? よかった〜!」 マルコは心底嬉しそうな顔で笑った。 「あ、でも僕の名前わかるかな? 一応同じ部屋なんだけど」 「マルコだろ? 同室のやつの名前もわからねえほどオレは薄情じゃねえ」 「そっか〜。覚えててくれたんだ! これからよろしくね!」 「ああ。こっちこそ」 ◆◆◆ 食堂の喧騒を離れ、ジャンは兵舎の外で一人夜空を眺める。 星が綺麗な夜だった。天高くに散りばめられた星々を見上げながら、まるで死者の魂でも浮かんでいるようだとジャンは思う。あの中にマルコもいるだろうか、独りはぐれていないだろうか。 (いけね。またマルコのこと考えちまった) 考えまいとすればするほどに彼との思い出が蘇り、ひどく懐かしい気持ちになってしまう。 ここにマルコがいてくれたら、いったいどれだけ楽しかっただろう。いや、そもそも自分とマルコは憲兵団志願だったから、こんなところにはいなかっただろう。内地で平和に暮らしながら、二人仲良くやっていたに違いない。 「――ジャン」 背後から声をかけられたのは、ジャンがありもしない幸せな未来を想像していたときだった。 「アルミンか」 「うん。ちょっと疲れてきちゃって、休憩しようかと思ってたところ」 同期生のアルミン・アルレルトは、そのあどけなさの残る顔に苦笑を浮かべた。 「ジャンはこんなところで何やってるんだい?」 「おまえと同じだよ。中にいるのに疲れて、こっちに逃げてきた」 そっか、と短い返事をして、アルミンはジャンの隣に腰を下ろす。 このときのジャンにはアルミンに話題を提供してやれるほどの気力はなかったし、アルミンのほうも特に話をしたいわけでもないようで、しばらく二人の間に沈黙が舞い降りた。 今度は二人そろって夜空を見上げる。同じものをその大きな双眸に映しながら、彼はいったい何を考えているのだろうか? そんなことを頭の中で呟いていると、ふいにアルミンがこちらを向いた。 「マルコのこと、残念だったね」 どうやらジャンの考えていたことがアルミンにはわかっていたらしい。そっとその名前を口に出し、少し悲しげに眉をひそめた。 「僕も、ジャンほどじゃないけどマルコとは仲がよかったから、死んでしまってすごく悲しいよ。マルコだけじゃない。ミーナやトーマス、他のみんなだっていっぱい死んでしまった」 「そうだな……」 アルミンのいうとおり、この間の巨人襲撃で多くの仲間が命を落とした。無論、ジャンだって彼らの死を悲しく思ってはいるが、やはり思い起こされるのは一番仲のよかったマルコとの思い出ばかりだ。 「アルミンは大事に思っていたやつを亡くしたこと、いままでにあったか?」 「あるよ。お父さんやお母さん、大好きだったおじいちゃんもみんな巨人のせいで死んでしまった」 「そうだったのか……」 思えばアルミンとこんな話をするのは初めてだ。そもそも人の暗い過去なんて興味がなかったし、こんな状況でもなければこの先訊くこともなかっただろう。 「この胸が痛いのは、いつになったらなくなるんだ?」 ジャンが大事な人を亡くすのは、これが初めてのことだ。だからどうすればこの悲しみを忘れられるのか、いつになったらこの喪失感が消えるのかまったくわからない。 「その人がいなくなって寂しいって気持ちはなくならないかもしれない。でも、悲しいって気持ちは消えはしないけど、段々と薄れていくんだ」 ジャンの問いかけに、アルミンは静かな声で答えを告げる。 「時間はかかるかもしれない。でもいつかきっと、その気持ちは自分の強さに変わると思うよ。って、弱い僕がいうのもなんだけどね」 「アルミンは弱くなんかねえよ。確かに体力面じゃ他のやつらより劣ってるかもしれねえけど、その切れる頭と、強い意志があるじゃねえか。オレはおまえのこと、弱いなんか思ったこと一度もねえ」 「……なんか、嬉しいな。でもまさか、ジャンにそんなことをいわれる日が来るとは思わなかったよ。ありがとう」 「バーカ。思ったことを正直にいっただけだよ」 アルミンは照れくさそうにはにかみ、再び夜空を見上げる。 以前から知っていたことではあるが、アルミンはとても話しやすい。その頭が切れる性格のおかげか、こちらの言葉の意図を的確に汲んでくれ、ためになる助言をしてくれる。こんな人間がいつもそばにいてくれるエレンが少し羨ましいと思うと同時に、彼になら“あのこと”を話してもいいかと、ジャンは胸の内である覚悟を決める。 「オレ、マルコのこと好きだったんだ」 「知ってるよ。僕だってマルコのことは好きさ」 「そうじゃねえ。その、なんだ……愛してるって意味のほうだよ」 誰にもいえず、ジャンの胸の中でずっと燻り続けた、マルコに対する恋心。もうしまっておく必要もないし、望んでいなかった形ではあれ、いい加減吐き出したかった。アルミンなら口外することもないだろうと、ジャンは最後までマルコ本人に伝えることのできなかったそれをアルミンに打ち明けた。 「そ、そうだったんだ……」 「やっぱり気持ち悪いか?」 「いや、別にそういう偏見はないよ。ただそういう人に出会うのは初めてだし、ジャンってミカサミカサっていってた記憶が多いから、かなり驚いたよ」 「まあ、女の中だったら断然ミカサだな」 訓練兵時代の様々な出来事を振り返り、あの頃は楽しかったとジャンはしみじみと思う。 「あいつはオレのこの正直すぎる性格を羨ましいといってくれた。それがすげえ嬉しかったんだ」 「確かにマルコはジャンのそういうところに憧れてたからね」 「みてえだな。まあ、そういうことをいわれたのもあってオレはあいつと仲良くしたいって思った。そんで実際にダチになって一緒に過ごしてるうちに、自分の気持ちがどんどん変わっていくのに気がついた。マルコを独り占めしたい。手を繋いで、抱きしめて、キスをして……そんなふうに思うようになっちまった」 けれどせっかく二人の間に芽生えた友情を壊したくなくて、ジャンはその気持ちを心の奥底に封印することにした。無防備な彼を見ては時折それが暴れ出しそうになったこともあったが、なんとか抑えつけ、見えない鎖で封印し直し――そうしているうちに“彼”が死んでしまった。 「優しくて、よく物を知ってて、頭がよくて……そんなあいつがオレは大好きだった」 躊躇わすにいえばよかった。勇気を出して、いえばよかった。 泣くときは一緒に泣いて、喜びも分け合って、愛し愛され生きていく――そんな幸せな未来がもしかしたらジャンたちを待っていたかもしれない。 でももう、何もかもが遅い。ジャンが愛していた彼は、もうどこにもいなくなってしまった。 「マルコ……」 彼の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。彼が見せるいろんな表情の中でも、その顔が一番好きで、見るたびに心が癒された。 「マルコっ……なんで、死んじまうんだよっ……」 マルコの遺体を目の当たりにしたときも、そして彼の遺体が燃やされたときも、悲しいはずなのに涙は一滴も出なかった。たぶんそのときはショックや動揺のほうが大きかったのだろう。それがいまになって、ジャンの抱く悲しみのすべてを吐き出すかのように、ボロボロと瞳から零れ落ちる。 「大丈夫だよ、ジャン」 アルミンの手が、ジャンの背中に優しく触れる。 「いまは泣いていいときだから。僕以外、誰も見てないし、誰にもいわないから。気が済むまで泣いていいよ」 「アル、ミン……くっ……」 アルミンの優しさが胸に温かい。それがマルコの優しさに少し似ていると思い出して、更に涙が溢れ出した。 ◆◆◆ 「もしもこの世界から巨人が一匹残らずいなくなって、壁も綺麗さっぱりなくなったら、ジャンはまず何をしたい?」 就寝前、座学の復習をしているときに、マルコがふいに訊ねてきた。 「巨人がいなくなったら、か。考えたこともないな」 「そうなのかい? じゃあ、いま考えてみてよ」 「う〜ん……アルミンのいってた“海”とかいう水から塩を取り出して、それで一儲けしてやる」 「あはは、ジャンらしいね。現実的で夢がない」 「うっせーな。そういうおまえはどうなんだよ?」 「僕? そうだな〜」 何か考えるように顎に手を当てたマルコの顔は、心底楽しそうだった。 「ありきたりだけど、世界中を旅したいな。外の世界がいったいどんなふうになってるのか、どんな場所があってどんな生き物たちが暮らしているのか、隅々まで調べてみたい。もちろん、ジャンと一緒にね」 「オ、オレと?」 「そう、ジャンと。一人じゃ心細いからね。それにジャンと一緒なら、きっと旅もより楽しいものになると思う」 まさかそこで自分の名前が出てくるとは思ってもみなくて、驚くと同時に彼に必要とされているのがジャンは嬉しかった。 「しょ、しょうがねえなあ! まったく、おまえはオレがいねえと駄目なんだから!」 「そうだよ。だから約束して。ほら」 いきなり小指を突き出され、一瞬なんのことだかわからなかったが、すぐに指切りを求めているのだと理解してジャンは思わず顔を顰める。 「この歳になって指切りなんかするかっつーの」 「駄目だよ、ジャン。こういうのはちゃんと約束しておかないと、年月が経つと反故にされちゃうから。ほら、早く」 「……わかったよ」 突き出された彼の小指に自分の小指を絡ませると、そのまま軽く上下に揺らされた。 「約束、ちゃんと守ってよ」 「守るって。オレがおまえとの約束を破ったことなんてあったか?」 「この間、立体起動の練習に付き合ってくれるっていったのに、君ってば寝てたじゃないか」 「あ、あんときは疲れてて死ぬほど眠かったんだよ! 悪かったって!」 「今度はちゃんと教えてくれよ。僕だって物理学教えてあげたんだから」 「わかったって!」 巨人がこの世からいなくなる。そんな時代が来てほしいとはもちろん思うが、たとえ来なかったとしても、この穏やかで楽しい日常が続けばそれでいい、とジャンは心の片隅で呟いた。 マルコがいればどんなときも楽しい。マルコがいれば世界が色鮮やかに感じられる。マルコがいれば―― ◆◆◆ ジャンが目を覚ましたとき、部屋の窓から見える東の空はほんのり明るくなり始めていた。 夜が明ける。いつもは何もかもがモノクロに見えてしまう世界に、今日は少しだけ色が付いたような気がした。アルミンとマルコの話をして、たくさん泣いて、その涙と一緒に胸の中に溜まっていた暗い感情の塊が流れ出て行ったのかもしれない。 だからといってマルコを想う気持ちがなくなったわけではなく、やはり彼のいない世界を寂しく思った。 (もう一度でいい……もう一度でいいから、あいつに逢いてえ) もしももう一度逢えたなら、自分の気持ちを素直に告白しよう。まず始めに彼は驚いた顔をするだろう。そのあとはどうだろうか? 気持ち悪いといって距離を置かれるだろうか? それともその気持ちを知った上で、いままでと変わらず友人でいてくれるだろうか? たとえどんな結果になるのだとしても、いまの自分なら躊躇わずに恋心を伝えられる。行き場を失い、ジャンの中を彷徨い続けるその感情は、それでようやく昇華されることになるだろう。 (マルコに、逢わせてくれ) 心に宿る熱い想いを感じながら、ジャンは夜明け前の空にそう祈るのだった。 |