巨人の侵攻を赦したトロスト区も、復興が徐々に進みつつあった。破壊の爪痕は未だに多く見受けられるが、元の喧騒を取り戻しつつもある。束の間の休暇を得たジャンは、そんな街並みを眺めながら、特に目的もなく歩いていた。
 訓練兵時代もマルコと二人でこうして街を出歩くことが多かった。何か目的があったわけではないのに、談笑したり、時折雑貨屋などに寄ったりして品物を眺めているだけで楽しかったな、ともう返って来ない日々を思い出す。

「いてっ」

 頭の中で過去の光景を映し出しながら歩いていると、突然人にぶつかった。

「申し訳ない。ちゃんと前を向いて歩いていなかった」

 先に謝ってきたのは相手のほうだった。ふいに現実へと引き戻されたジャンの目に最初に映ったのは、素人の目でも高価なものだとわかるような、ラシャのジャケットだった。まるで雪のような純白で、ズボンも同じ素材と色をしている。

「いや、こっちこそぼうっとしてて……すみませ……ん……!?」

 そんなものを着られるのは王族か、あるいは王都に住まう貴族くらいのものだ。いったいどんな顔をしているのだろうかと視線を上げ、その瞬間にジャンは目を見開くこととなる。
 着ている服と同じ色の帽子。そこから覗く顔はずいぶんと若い。おそらくジャンと変わらないくらいの年頃だろう。それだけなら別に驚くことなど何もない。問題はその顔にあまりにも見覚えがありすぎるところにあった。
 そっくりなんていうものではない。頬に少し目立つそばかすに、知的そうな瞳。穏やかに微笑む顔は、完全に記憶の中の“彼”と一致している。もうこの世に存在しないはずの“彼”の姿を目の当たりにし、ジャンは呼吸するのすら忘れてしまうほどに驚いた。

「マル……コ……?」

 夢でも見ているのだろうか? マルコを思う余り、都合のいい幻想を目の前に映しているのだろうか? 
 夢でもいい。マルコと話せるのなら、マルコに逢えるのならなんだっていい。だからいまはこの幻想の世界を存分に楽しもう。

「僕の顔に何か付いてますか?」

 けれど目の前の彼が発した声が、自分の知っている“彼”の声と少し違うことに気がついて、ジャンは急速に現実へと引き戻された。

「マルコ……じゃねえのか?」

 恐る恐る訊ねると、純白の服に身を包んだ彼は困ったような苦笑を浮かべた。

「僕はマーカスと申します」

 冷たい言葉が、冷たい現実を伴ってジャンを襲う。
 いや、最初からわかっていた。マルコはもう、どこにもいない。マルコを想う気持ちが強すぎて、ただ少し似ているだけの人間が彼と同じ顔に見えてしまうだけだ。

「あなたのお名前は?」

 マルコではない別の誰か――マーカスとかいったか――は、丁寧な言葉遣いで訊ねてくる。

「ジャン……ジャン・キルシュタイン」
「キルシュタイン殿。お怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫だ。そっちは?」
「大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした。慣れない道なもので、地図ばかりを見て前方への注意が散漫になっていました。あの、もし時間がおありでしたら、お詫びにコーヒーでも奢らせて下さい」
「別にいいって。オレだってぼうっとしてたんだし、逆にこっちが申し訳なくなる」
「いえ、それでは僕の気が済みません! どうかご一緒にお願いします!」
「わ、わかったよ。一緒に行ってやる」

 相手の並々ならぬ勢いに押され、ジャンはマーカスの誘いを受けることにした。
 出会いの衝撃から立ち直り、徐々に落ち着きを取り戻しつつあったジャンだが、落ち着いてみてもやはりマーカスの顔はマルコと同一人物にしか見えない。たとえば二人が兄弟というなら似ているのも納得だが、マルコは一般家庭で生まれ育ったといっていたし、このマーカスも兄弟はいないと、嘘をついているとは思えない顔で話してくれた。

(駄目だ。考えてもわかるわけがねえ。ただの偶然だ)

 二人の謎を解き明かすことを放棄し、ジャンは頭から靴先まで真っ白な彼の半歩後ろをついていく。
 高価な衣装の印象から、てっきり表通りの洒落た喫茶店に連れられるのだとばかり思っていたが、マーカスは人気のない裏通りに入っていく。

(あれ、こっちって……)

 ジャンはその道に見覚えがあった。マルコと街に繰り出すたび、この道を通ってある場所に向かっていた記憶が蘇る。

(おい、嘘だろ……)

 そして目の前を歩く青年は、ジャンが慣れ親しんだ建物の前で足を止めた。

(ここってマルコのお気に入りの……)

 マーカスは穏やかな笑顔でジャンを振り返る。

「ここのコーヒー屋、とても美味しいんですよ。この間街を散策していたら偶然見つけたんです」
『ここのコーヒー屋、とても美味しいんだよ。この間街を散策していたら偶然見つけたんだ』

 言葉遣いは違うが、マーカスはあのときマルコがいった台詞と同じ台詞を口にした。
 マーカスの高価な衣装にはおよそそぐわない、慎ましい外見の建物。中も外見どおり手狭で、狭いカウンターと四人掛けのテーブルが二つしかない。二人はカウンター席に腰かける。

「何になさいますか? 僕としてはブラックがお勧めなんですけど」
「ああ、いや……オレブラック飲めねえから、カフェオレで」
「わかりました」

 マルコもここのブラックコーヒーが好きで、しつこく勧められたのも懐かしい。彼が美味しい、美味しいと何度も連呼するものだから、ジャンも試しに一口飲んでみたのだが、苦すぎてマルコの顔に向かってコーヒーを噴出してしまった記憶がある。
 それからマーカスとはいろんな話をした。
 マーカスはジャンの予想どおり王都に住まう貴族で、今日は一人で街の散策に来たらしい。本来なら護衛をつけなければならないのだが、監視の目がある中ではせっかくの散策も楽しくなくなると思い、こっそり屋敷を抜け出したそうだ。
 ジャンも訓練兵時代のことや、いま現在調査兵団に所属していることを彼に話した。するとマーカスは苦笑混じりに訊ねてくる。

「調査兵団だなんて、さぞ大変でしょう。でも、憲兵団や駐屯兵団があるのに、どうしてわざわざ調査兵団を選んだのですか?」
「……本当は憲兵団に入りたかったんだ。憲兵団に入れば内地で安全に暮らしていけるからな。でも、この間の巨人襲撃で大事な友達が死んじまって、それじゃいけねえって思ったんだ。このまま巨人を放っておいたら、また同じことが起こっちまう。そんなの嫌だし、死んじまった友達もオレが内地で呑気にしてりゃ、さぞがっかりするだろうよ。だから調査兵団を選んだんだ」
「それは……お気の毒でした」

 マルコに瓜二つのマーカスに慰めの言葉をもらうのは少し変な感覚がしたが、表情には出さずにジャンは一つ頷いた。

「ついこの間まではそいつのことでくよくよしてたんだけど、いろんなやつがオレのこと心配して声かけてきやがるんだ。だからこのままじゃ情けねえって思って、いまはなんとか元のオレに戻ろうとしている途中だよ。まあ、完全に立ち直るまでどれくらいかかるか見当もつかねえけど」
「その人はキルシュタイン殿にとってかけがえのない存在だったんですね。どんな方だったんですか?」
「顔はマーカスそっくりだな。優しくて、頭がよくて、抜身なオレをいつも心配してくれていた。一緒にいてすげえ安心できるやつだった。あんないいやつにはもう二度と出逢えねえだろうな〜……って、マーカス!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、隣のマーカスが突然泣き出したからだ。

「ちょっ!? なんで泣いてんだよ!?」
「す、すみません……。僕も大事な人を亡くすのを想像したら、悲しくなってしまって……」
「いま想像すんなよ!」

 嗚咽まで零し始めたマーカスの背中をジャンは優しくさすってやる。店のマスターもマーカスの異変に気づいて気を利かせたのか、空になりかけていた彼のカップに新しいコーヒーを継ぎ足してくれた。

「これでも飲んで落ち着けって」
「はい。すみません……」

 くしゃくしゃの泣き顔でコーヒーを啜る彼の姿は、小説を読みながら涙を流していたマルコを彷彿とさせる。マルコも涙腺が緩いほうで、感動するとこんなふうにボロボロとよく泣いていた。そんなところまで似ているのかと驚きながら、まるで本当に目の前にマルコがいるような気がして懐かしくなる。

「落ち着いたか?」
「おかげさまで。お恥ずかしいところをお見せして申し訳ない」
「そういう日もあるさ。落ち着いたところでいうけど、おまえいまからオレに対して敬語禁止な」
「ええ!?」
「だってどうせ歳も同じくらいだろう? そういうやつに敬語を遣われるのはあんまりいい気はしねえ」
「で、でも……」

 困ったような顔をするマーカスに、ジャンはニカリと笑ってみせる。

「オレたちはたったいま友達になった。友達の間に敬語なんか不必要だ」
「と、友達ですか!?」
「なんだよ。オレみたいな身分の低いやつとは友達になれねえってか?」
「ち、違います! 僕、そういうことをいわれたことがないもので……それに同年代の友達って少ないですし、す、すごく嬉しいです!」

 さっきの泣き顔から一転、今度は明るい笑顔を見せるマーカス。そんなマーカスと友人になりたいと、ジャンは心の底から思っている。もちろん彼がマルコに似ていることがそう思えたきっかけでもあるのだが、そうでなくても彼の眩しいような純粋さは見ていて悪い気はしなかった。

「それとオレのことはキルシュタインじゃなくて、ジャンって呼べ」
「わかりま……わかったよ、ジャンさん」
「“さん”はいらねえ」
「わ、わかったよ…………ジャン。ありがとう」

 そのときジャンは、マーカスのある変化に気がついた。
 それは“声”だ。最初はマルコとは少し違う声をしていると思ったが、いまジャンに礼をいった彼の声は確かにマルコのものと同じだった。聞き取りやすくて、滑らかで、耳触りのいい声。

「そうだ、ジャン。少々お願いがあるんで……あるんだけど」

 けれど次の瞬間に放たれた声は、またマーカスのものに戻っている。

「この辺に花屋はあるかい? あるなら案内してほしいのだけど」
「確か表通りの端っこのほうにあったっけな……なかったらすまねえ。これ飲み終わったら行くか」
「うん!」



 今日出会ったばかりの相手だが、マーカスと一緒にいるのはとても楽しかった。他愛もない世間話からちょっとした恋愛話。二人の間に話題は尽きず、あっという間に目的の花屋に到着してしまった。

「オレはここで待ってるよ。花にまったく興味ねえからな」
「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
「気にすんな。ゆっくり選んで来いよ」

 うん、と返事をして、マーカスは色とりどりの花が並ぶ店内に入っていく。
 敬語を遣うのを禁止したせいか、彼がなんだかよりマルコに近づいた気がしていた。あとはあの純白の服を質素なものにすれば、完全にマルコと一致するだろう。
 もしかしたら、とジャンは思った。もしかしたら彼は本当にマルコ本人で、彼に会いたいという自分の強い思いに引き寄せられたのかもしれない。

(馬鹿か。そんなこと、現実にあるわけねえだろ……)

 都合のいい幻想をジャンはすぐに否定し、花を見ながら店員と何か話をしているマーカスを眺めていた。

「お待たせ」

 十分くらいして店から出てきたマーカスの腕には、何種類かの花が抱えられていた。

「花、好きなのか?」
「好きってわけじゃないけど、部屋に欲しいなってずっと思ってたんだ。使用人に頼めばすぐに手配してくれただろうけど、こういうのってやっぱり自分で見て選んだほうが、愛着が湧くかなって思って」
「確かにそうかもな」

 それから二人は表通りを適当にぶらついた。時々露店で食べ物を買ったり、雑貨屋を冷やかしたりしながら、ジャンの休日は緩やかに過ぎていく。気づけば天高くにあったはずの太陽もずいぶんと低い位置まで落ちており、夕刻を知らせる鐘が街中に響き渡った。

「もうこんな時間か……そろそろ屋敷に戻らないと」

 マーカスの寂しげな声を聞いて、ジャンも急に寂しくなる。
 マルコを失って以来、あれほど色鮮やかだった世界がモノクロに映り、楽しかった毎日が途端につまらなくなった。けれど今日は沈んでいたジャンの心が晴れ渡るほどに楽しくて、充実した一日だった。これもマーカスのおかげだろう。

「今日はありがとう。ジャンのおかげでとても楽しい一日だったよ」
「いや、こっちこそいい気晴らしになった。また逢えるよな?」
「…………うん。きっと逢えるよ」

 哀愁の漂う笑みを浮かべるマーカス。その右手がすっと差し出され、ジャンはそっとそれを握る。
 温かい。彼の優しさそのもののような温もりを感じ取り、心に安心感が満ちてくる。だが、その手の甲に一本の太い線のような痕があることに気づいて、ジャンははっとなった。
 確かマルコの手の甲にも、これと同じ痕があったはずだ。幼い頃、遊んでいるときに熱した鉄の棒に手が当たってしまい、火傷して大泣きしたと彼は話していた。
 顔も同じで、雰囲気も同じで、声も時々同じで、手の火傷の痕も同じ。そこまでの共通点があって、別人であるはずがない。ということはやはり、目の前の男は――

「じゃあ、さようなら」

 手を離そうとしたマーカスの手を、ジャンは咄嗟に強く握り締め、どこにも逃げられないようにした。

「ジャ、ジャン!?」
「……おまえ、本当はマルコなんだろう?」

 気づいた事実を口にすれば、マーカス――いや、マルコは一瞬驚いたような顔をした。しかしすぐに表情を引き締め、至極落ち着き払った声で言葉を返してくる。

「その人は死んだって、さっきジャンはいってたじゃないか」
「ああ、確かにいった。でもいまオレの目の前にいるのは絶対にマルコだ。オレがおまえのことわからないわけねえだろ? あんなに一緒にいたんだからな」

 マルコはジャンから顔を背け、押し黙ったまま動かなくなる。

「どういう理屈かはわかんねえけど、いまマルコは確かにここにいる。それでたぶん、ここで別れたらもう二度と逢えねえんだろう? おまえさっき嘘ついたもんな」

 ジャンがまた逢えるかと訊ねたとき、マルコが返事をするまでにわずかな間が生じた。それに加えて返事をした彼の片眉がぴくりと動いたことから、その台詞が嘘だとジャンにはすぐにわかった。なぜならそれは、マルコが嘘をつくときの仕草だからだ。

「もう逢えねえってんなら、せめてオレにいいたこといわせろよ。そんでそれをマーカスじゃなくて、ちゃんとマルコとして受け取れ。じゃないともう離してやらねえぞ」
「ジャン……」

 ようやく顔を上げたマルコは、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
 何かを迷うように泳ぐ視線。背中を押してやることもできないことはないけれど、真実をいうか否かは彼自身が決めることだ。たとえそれがジャンにとって喜ばしくない答えだとしても、素直に受け入れなければならないだろう。

「……嘘ついててごめんよ、ジャン。君のいうとおり、僕は確かにマルコ・ボットだ」

 期待と不安の入り混じった気持ちで彼の答えを待っていると、ジャンが望んでいた台詞がマルコの口から静かに放たれる。

(やっと……)

やっと逢えた。ずっと逢いたいと毎日のように願っていた彼に、やっと――。
 やはり目の前の彼は、ジャンが大好きだった親友で間違いなかった。ジャンの胸に改めて嬉しさと懐かしさが広がってくる。思わず泣きそうになるのを懸命に堪えながら、長く触れることのできなかったその手を今度は両手で握った。

「消えてしまう前にどうしてもジャンに逢いたくて、少しだけ時間をもらったんだ」

 誰に、とは訊かなかった。というか、死んだマルコにそんな施しをしてやれるファンタジーな存在がいるのだとしても、別に興味はない。マルコにまた逢えた。ジャンにはそれだけで十分だった。

「もうあんまし時間ねえのか?」
「うん。もう少ししたら、僕は完全に消えてなくなる。僕もね、ジャンにいいたかったことがたくさんあるんだ。けど、全部をいう時間はもうないみたいだから、一番大事なことだけいっておくね」

 彼独特の穏やかな笑顔だったけれど、その瞳の端からは涙が零れていた。本当に別れが近いのだと実感して、ジャンの胸は一抹の寂しさと焦燥感に駆られる。

「僕は君の親友でいられてとても幸せだった。君のおかげで辛い訓練も耐え抜けたし、毎日が楽しかった。だから……」

 嗚咽が零れたのか、マルコは途中で台詞を詰まらせる。けれど視線はジャンから外すことなく、震える唇で必死に言葉を紡ぎ出した。

「いつも一緒にいてくれてありがとう。これが、僕がジャンに伝えたかった言葉だ」
「馬鹿っ……そんなの、わざわざ礼をいうほどのことでもねえよ。だって、オレもすげえ楽しかったんだから……」

 湿った別れにはしたくない。だからジャンは笑おうとしたけれど、それは失敗に終わった。視界がぐにゃりと歪んだかと思えば、瞳から熱いものが瞬く間に流れ落ち始める。
 悲しくて、寂しくて、悔しくて――彼を亡くしてから抱いていた様々な思いが、涙となって溢れ出す。それを見たマルコもついに笑顔が崩れ、くしゃくしゃの泣き顔をジャンに晒した。

(たぶんオレも、同じような顔してんだろうな……)

 嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる姿は人としてみっともないかもしれない。けれど止めように止められないほどに、間近に迫った二度目の別れが辛かった。
 ジャンは自分よりも少し大きなマルコの身体をそっと抱きしめる。
 別れまでのわずかな時間、この温もりをずっと腕の中に抱いていたい。いままで離れていた分と、これからもう触れられなくなる分を埋め尽くすために。いっそこのままずっと腕の中に捕まえて、どこにも行けないようにしてやろうか? マルコの温もりを感じながら、ジャンはそんなことを考えた。

「オレはおまえがずっと好きだった。友達としてってだけじゃなくて、愛してたんだ」

 でも、これだけはいまいっておかなければならない。ジャンが最後まで彼に伝えることのできなかった、正直な気持ちを。このまま永遠にジャンの胸に残されていくだけだろうと諦めていた、大切な想いを。

「僕も同じ気持ちだったよ、ジャン」

 マルコの涙声が、耳元で告白に対する返事を告げる。

「僕もジャンを愛していた。ずっと……」
「……ならもっと早くいえよ」
「ジャンだって今頃になっていったじゃないか」
「そりゃそうだけど……」

 もっと早くにお互いの気持ちを知ることができたなら、親友よりももっと肌が近い関係になれたのに。ただどんなに悔やんだところでもうどうしようもない。ならばせめてこの限られたわずかな時間に、恋人という新しい関係を味わっておこう。

「な、なあ……キ、キ、キスしてもいいか?」
「ええ!?」
「だってもう逢えねえんだろ? だったらいましとかねえと絶対後悔する」
「そ、そうだね。じゃ、じゃあ、しようか……」

 さっきまであんなに見つめ合っていたというのに、いざキスをしようと思ってそれをすると、途端に恥ずかしくなる。互いに顔を赤くしながら目を逸らし、けれどそんなわずかな時間ももったいないと、ジャンは決意を固めてもう一度マルコに向き直った。

「マルコ……」

 呼ばれてマルコが顔を上げた隙に、ジャンは自らの唇を彼の唇に押しつけた。
 初めて心から愛していると思った相手との、初めてのキス。こんなに幸せな感覚は初めてだ。
 マルコの柔らかな唇の感触を確かめるように何度も角度を変え、長く、長く、初めてのキスを堪能した。

「ジャン、大好きだ……」
「オレも、おまえが大好きだ」

 長くに渡ってジャンの心の中を彷徨い続けた、マルコへの恋心。それがついに成就し、ジャンと過去とを繋げていた足枷がようやくなくなったような気がした。

「そうだ。これをジャンに渡しておくよ」

 そういってマルコは、花屋で買った花束の中から一輪の花を取り出し、ジャンに差し出す。

「それは“フリージア”っていって、花言葉は“親愛の情”なんだって。ジャンに花を愛でる趣味なんてないって知ってるけど、持っていてほしいんだ」
「確かに花を愛でる趣味はねえけど、マルコがくれるもんならなんだって嬉しいさ。大事にする」

 マルコの着ている服と同じ色の、純白の花。まるでマルコの心をそのまま取り出したようだとジャンは思った。

「今更だけど、その服似合ってるな」
「そうかな? 僕としてはもうちょっと地味なのがよかったんだけど」
「いや、似合ってるよ。おまえの心の綺麗さをそのまま表現したみたいだ」
「なっ……そんな口説き文句どこで覚えてきたんだよ?」
「思ったことをそのままいってみただけだ。オレってそういうやつだろ?」
「そうだけど……ちょっとベクトル変わってる気がする。まあ、嬉しかったけど」

 花の寿命がどれほどのものなのかまったく知らないが、一生大事にしよう。それこそこれをマルコだと思って、毎日ちゃんと世話をしてやろう。

「ジャン……みんなと仲良くしてね。特にエレンにはもっと優しく接してあげなよ」
「なんでそこであいつの名前が出てくんだよ」
「だって心配なんだ。僕がいないとジャンを止める人がいないし、ジャンの味方もきっといない。突っかかってばかりじゃ、ジャンがまたいつかみたいに孤立してしまうだろう? それにエレンのほうはきっと、君とも仲良くしたいって思ってるよ。君が素直になれば、きっと二人は上手くいくと思う」
「……すぐには無理だけど、考えとく」
「絶対だよ。それと……約束、守れなくてごめんね」
「約束?」
「ほら、指切りしただろう? 巨人がいなくなったら一緒に外の世界を旅しようって」

 確かあれは訓練兵になって二年目くらいのときだったか、宿舎のベッドで巨人がいなくなったときの話を二人でしていて、最後にそんな約束を交わしたのを覚えている。
 マルコが死んでしまったいま、その約束はもう永遠に果たされることがなくなってしまった。それをまざまざと実感させられ、寂しさが再び込み上げてくる。

「いいんだ。巨人がいなくなったら、オレがおまえの分まで外の世界を見てきてやるよ。そんで、年取って死んでそっちに行ったら、オレが見てきたものをおまえに話してやる。」
「ありがとう。楽しみに待ってるよ」

 何年先になるかはわからない。でもいつかきっとすべての巨人を駆逐し、平和な世界を取り戻してみせる。それは自分自身のためでもあるし、何より夢を叶えられなかったマルコのためにも成さなければならない。

「ジャン……僕のこと、忘れないでくれよ」
「馬鹿……オレがおまえのこと忘れるわけねえだろ。だって……こんなに好きなんだからな」
「そうだね。ジャンは優しいから、きっと僕のことを覚えていてくれる。だからきっと来世で巡り逢ったときも、お互いすぐにわかるよね?」
「当たり前だろ。なんたってオレとおまえ、だからな」

 これはきっと、最後の別れなどではない。これだけ互いが互いを強く想い合っているのだ。絶対にまたどこかで出逢い、今度こそ幸せになれるだろう。ジャンはそう信じることにした。

「じゃあ、さようなら――いや、また逢おう」
「ああ。また逢おうな」

 最後にマルコは泣き腫らした顔で微笑んだ。ジャンが彼のいろんな表情の中で一番好きだったそれを見せて、踵を返す。
 一歩、一歩、自分から離れていくマルコ。その身体は徐々に霞んでいく。あとほんの少しで、本当に消えてなくなってしまうのだろう。

「マルコ!」

 最後にもう一度彼に触れたくて、ジャンはその名前を呼んで走り出した。
 もっと一緒にいたい。せっかく恋人同士になれたのだ。もっと抱きしめて、もっとキスをして、もっと――
 だが、伸ばした手が再びマルコに触れることはなかった。あとほんのわずかで彼に届くというところで、こちらを振り返った彼の姿は完全に消えてしまったのだ。そのまま前のめりに倒れ、手を突いた地面に涙が落ちていく。

「マルコ……くっ……うぅっ……」

 また逢えると信じていても、やはり別れるのは辛い。あれだけ泣いたのに涙は枯れるどころか、さっきよりも更に量を増して溢れた。
 何よりも欲しかった。誰よりも大切だった。ジャンにとってそんなかけがえのない存在だったマルコ・ボットは、ジャンのいない世界へと行ってしまった。







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